artscapeレビュー

2015年05月15日号のレビュー/プレビュー

アイデンティティXI──ポスト・コンフリクト

会期:2015/03/06~2015/04/18

nca | nichido contemporary art[東京都]

内戦や領土問題などさまざまな争いをテーマにした9組のアーティストによるグループ展。アフガン戦争におけるアメリカの機密文書をシルクスクリーンにしたジェニー・ホルツァーの作品はストレートだが、茶葉を一辺20センチの立方体に固めたアイ・ウェイウェイの作品は、なんでここにあるのかわからない。潘逸舟は両端が柄になって刀身が抜けない《不戦刀》と、魚釣島が沈んでいく映像を出品。これはわかりやすい。同展のキュレーションを務めたブラッドレー・マッカラムも尖閣諸島を扱った作品を出している。マッカラムはほかに、アフリカや旧ユーゴの政治的指導者の顔もフォトリアリズムで描いてる。負の肖像画というべきものだが、だれがこれらの肖像画を見たい(買いたい)と思うだろう。こうしたソシオポリティカルな作品はそれぞれの社会的背景がわからなければ理解しにくいため、解説が必要となる。同展にも解説を書いた紙を配っているが、解説がない作品もある。廃車の上にたたずむアフリカの若者とヒヒを撮ったピーター・ヒューゴの写真《ウモル・ムルタラとスクールボーイ》もそう。ウモル・ムルタラというのが若者の名前だとすると、ヒヒがスクールボーイになってしまうし、若者がスクールボーイだとするとヒヒが姓名を持つことになる。はたしてそういう意図の作品なのか。

2015/04/11(土)(村田真)

細見美術館 琳派のきらめき──宗達・光琳・抱一・雪佳

会期:2015/04/01~2015/04/12

大阪高島屋 7階グランドホール[大阪府]

江戸期京都の本阿弥光悦と俵屋宗達の活躍に始まり、尾形光琳・乾山兄弟を経て、酒井抱一らの江戸での展開、そして近代京都の神坂雪佳による再興までにわたる、琳派の流れを一堂に紹介する展覧会。細見美術館が所蔵するコレクション約90点が展示された。京都・江戸だけでなく大阪での広がりと、明治期における琳派の復興にも目配りがされているから、琳派の長きにわたる系譜を総じて把握することができる。江戸後期大坂の絵師・中村芳中の諸作品は、宗達による工芸的な手法「たらし込み」と琳派の華やかさを踏襲しながらも、上方文化を彷彿とさせるような親しみやすく闊達な作風で面白い。とりわけ興味深かったのは、最後に展示された図案家・雪佳の作品群。《金魚玉図》にみられるような、金魚のユーモラスな表現、洗練された大胆な構成には唸らされる。雪佳のデザイン感覚は、絵画と工芸の領域双方を手掛けた琳派の始祖に由来しており、その発展形とみることができよう。[竹内有子]

2015/04/11(土)(SYNK)

渡部敏哉「THROUGH THE FROZEN WINDOW」

会期:2015/03/18~2015/04/19

POETIC SCAPE[東京都]

渡部敏哉は1996年12月に、友人とウラジオストックからシベリア鉄道経由でロンドンに向かう旅を企てる。結局、その真冬の鉄道の旅はヘルシンキで断念することになるのだが、シベリアを旅しながらその途上で撮影された写真群から、17点を選んで展示したのが今回の個展である。
写真の運命というのは不思議なもので、撮影されてすぐに発表されて脚光を浴びる場合もあるし、結局日の目を見ないこともある。今回の渡部の写真のように、20年近くたってはじめて展示されるというのは、かなり珍しい例ではないだろうか。写真を見ると、「寝かせていた」ことがとてもいい方向に働いたことがよくわかる。シベリア鉄道の旅が、若者たちの間でロマンチックな憧れとして語られていた時代は既に過ぎ去り、銀塩のモノクロームプリントもクラシックな印象を与えるものになっている。だがそのことが、イメージがじっくりと熟成して、いい味わいを醸し出すことにつながってきた。凍りついた窓越しに見る、寄る辺のない冬のシベリアの眺めは、渡部の個人的な体験というだけではなく、多くの人たちが自分の旅の経験を重ね合わせることができるものになってきているのだ。
渡部が前回のPOETIC SCAPEでの個展に出品したのは、原発事故によって立ち入り禁止になった故郷、福島県浪江町をカラー写真で撮影した「18 months」だった。今度の作品は、それとはまったく異なる印象を与えるものだが、逆に彼の写真家としての懐の深さを感じることができた。

2015/04/12(日)(飯沢耕太郎)

西山裕希子「You」

会期:2015/03/28~2015/04/12

Gallery PARC[京都府]

西山裕希子はこれまで、ロウケツ染めの技法を用いて、主に女性像や、女性像と組紐などの紋様を組み合わせた平面作品を発表してきた。今回の個展では、染織をベースにしつつ、「うつす」行為や「トレース」がはらむズレへと作家の関心が移ってきたことが伺える。
この関心の変化は、元々、ロウケツ染めの技法に内在していたものだ。ロウケツ染めでは、「うつす」「なぞる」プロセスが幾重にも介在する。まず下絵をトレーシングペーパーになぞり、布に線をうつし、線の周りをロウでなぞり、ロウとロウの隙間に染料を染み込ませることで、残された隙間が線として顕在化する。こうした何重もの「うつす」プロセスを経ることで、元々の線は微細なズレをはらんでいく。
今回の個展では、ロウケツ染めの平面作品に加えて、銀塩写真をガラスにプリントした作品や、鏡やガラスの映り込みを利用したインスタレーションが展示されている。また、絵画の起源として有名な「恋人の影を壁になぞる女性」の図像を文字通りトレースしたドローイングもある。特に、写真をガラスにプリントした作品では、銀を含んだエマルジョンをガラスに塗って像を定着させる際にズレが生じ、像にわずかな歪みをもたらす。被写体はいずれも光が差し込む窓辺であり、それ自体が透明なガラスにプリントされ、透過光の差し込むガラス壁に置かれることで、天気や時間帯によってさまざまな陰翳の表情を見せ、美しい。
線のトレース、「うつす」行為がもたらすズレ、オリジナルからの距離の増幅、映像を生み出す光源としての光、光の痕跡としての写真、ガラスや鏡への映り込み、反射や鏡像……「うつす」を軸に多様な試みが展開され、インスタレーション空間の中で文字通り乱反射のように響き合う個展だった。過渡的ではあるが、それぞれの分岐が今後、どう展開されていくのかが楽しみである。

2015/04/12(日)(高嶋慈)

村川拓也『終わり』

会期:2015/04/12~2015/04/13

アトリエ劇研[京都府]

2013 年の『瓦礫』に続く、演出家・映像作家の村川拓也によるダンス作品の2作目。出演ダンサーは倉田翠と松尾恵美。
ただし、前作の『瓦礫』と同様、村川自身がいわゆる「振付」を行なったわけではない。村川の演出した演劇作品におけるように、ドキュメンタリー的手法を用いて、出演者自身の身体的記憶を抽出し、再編集し、舞台空間上で再現するという方法が採られている。『瓦礫』では、出演ダンサー3名が普段の仕事で行なっている動作(飲食店のバイト、映画館のスタッフ、インストラクター)が舞台上で淡々と再現・反復されていた。一つひとつの動作の意味は明瞭であり、接客の言葉も口に出されるが、3つの動作が同じ空間に併存して展開され、互いの見え方に干渉し合うことで、具体的な日常の身振りと抽象的なダンスのムーブメントとの境界が曖昧になっていく。同時に、「現実に行なわれている行為(労働)」と「舞台上での再現」との境界も撹乱されていく(現役の介護士が被介護者役の観客に対して、介護=労働を舞台上で身振りとして行なう『ツァイトゲーバー』でも同様の事態が起こっている)。
『終わり』もまた、出演ダンサーの身体に蓄積された履歴を「再編集」してつくられている。ただし、出演者2名が過去に踊った作品から抽出した振付をソースとする点で、『瓦礫』とは大きく異なる。このソースの違いは、当然、作品の質的な差異にも作用する。『終わり』は一見、よく構成されたデュオのダンス作品に見える。だが、『終わり』を見終わって感じたのは、いわゆる完成度とは異なる強度へ向かおうとする意志に満ちていたことである。この強度には二種類ある。ひとつめは、平手打ち、相手の腹を蹴る、全身を使った激しい動き、といった元々の振付自体がもつ強さである。暴力的なまでの肉体の酷使が何度も反復されることで、ムーブメントとしての強度がより増幅されていくのだ。そして二つめが、感情の強度である。とりわけ、前作にも出演していた倉田翠が、『瓦礫』では淡々と反復・再現を行なっていたのとは対照的に、『終わり』では、カーテンコールの際に、精神的な緊張感の持続と解放が入り混じった複雑な表情を浮かべ、涙を見せていたことが印象的だった。聞けば、「過去作品を振付けした時、踊った時に何を考えていたかを思い出しながら踊る」という指示を受けていたという。つまり村川は、具体的な身体の動きではなく、意識を振付けていたことになる。呼び出した記憶を抱えて踊ること、踊ることが感情の強度を高めていくこと。それがフォームとしての反復を凌駕した時、舞台上で起こっていることはリアルな「出来事」へとすり替わる。舞台芸術では、過去に起こった出来事の「完全な再現」は原理的に不可能である。村川の作品は、この不可能性を承認しつつ、虚構の精度を上げてつくるリアリティではなく、「出来事」が起こる一瞬の裂け目に賭けているからこそ、見る者に迫ってくる。そこに、ドキュメンタリーを出自とする村川が舞台芸術作品を手がけることの意義もあると言えるだろう。

2015/04/12(日)(高嶋慈)

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