2021年04月15日号
次回5月17日更新予定

artscapeレビュー

2015年05月15日号のレビュー/プレビュー

大阪万博1970 デザインプロジェクト

会期:2015/03/20~2015/05/17

東京国立近代美術館 ギャラリー4[東京都]

「大阪万博1970デザインプロジェクト」が興味深い。以前、同館ではオリンピックのデザイン展を開催していたが、その万博版というべき内容だ。万博については、だいぶ勉強したと思っていたが、まだ知らないことがいろいろある。サイン、ファニチャー、広場、制服、展示など、来場者を取り巻く環境のすべてに、優秀なデザイナー、建築家、芸術家が数多く動員されていた。果たして2020年のオリンピックはどうなるのか?

2015/04/15(水)(五十嵐太郎)

大阪万博1970 デザインプロジェクト

会期:2015/03/20~2015/05/17

東京国立近代美術館[東京都]

シンボルマークの制定やポスター制作などの事前のプロモーション、ピクトグラムやサイン計画、ストリートファニチャーなどの施設デザイン、そして各パビリオンの制服まで、1970年の大阪万博に関わったさまざまなデザインワークを紹介する展覧会。建築や美術、サブカルチャーの視点から大阪万博を見る試みは多いが、これをデザインの視点から検証する企画は寡聞にして知らず。とても興味深く見た。
 「東京オリンピック1964デザインプロジェクト」(東京国立近代美術館、2013/2/13~5/26)に続いて本展を企画した木田拓也・東京国立近代美術館工芸課主任研究員によれば、東京オリンピック、そして大阪万博のデザインプロジェクトには、1960年に開催された世界デザイン会議を起点として共通するデザイン・ポリシーが存在するという。ひとつはデザイナーの社会的役割。「デザイナーとはたんに産業社会の一員として企業や商品の広告宣伝を担う職業ではなく、その仕事を通じて社会の変革を促す力を備えた思想家のような存在でもあるという自覚」。これが「1960年代の日本のデザイン界の底流には流れていた」とするのである(本展図録、11頁)。もうひとつは「一貫性のあるデザインポリシーの確立」という実務的な側面である。具体的には最初にシンボルマークを決定し、そこからポスターなどのデザインを派生させるという方法で、世界デザイン会議でも、東京オリンピックでも、そして大阪万博でも、勝見勝のディレクションのもとに、同様の手法が試みられた(同、12頁)。
 しかしながら、ポリシーが存在したということと、それが実現され得たかどうかとはまた別の話である。実際のところ、大阪万博では「デザインに一貫性がみられず、水準にもばらつきがあった」(同、13頁)のである。なにしろ、シンボルマークの決定自体に躓きがあった。1966年に行なわれた指名コンペで選出された西島伊三雄の作品が石坂泰三・万博協会会長によって「抽象的で大衆性がない」と酷評されて却下され、選考がやり直しになったのだ。再度のコンペでは石坂会長も審査員に加わり、桜の花をモチーフにした大高猛の作品が選ばれた。現在から振り返ってみれば、大高猛によるシンボルマークは大阪万博のイメージと固く結びついて記憶されているし、万博というイベントそのものも想定以上の成功に終わったことを考えれば、事後的にはデザインも成功であったと言ってよいのかもしれない。しかし同時代には多くの批判を受けている。勝見勝は大高の作品を称賛したが、それならば最初に選ばれた西島伊三雄の作品はなんだったのか。デザイナーのなかには桜という具象的なイメージを古くさいと批判した者もいたし、デザイン選考過程の混乱も批判された。川添登は、最初の提案が否定された時点で勝見勝委員長は辞任すべきだったと述べている。
 大阪万博において「一貫性のあるデザインポリシーの確立」ができなかったのはなぜだろうか。木田研究員は「(大阪万博の)デザイン懇談会とはあくまでも万博協会の外部の自主的な団体であり、その位置づけはあいまいで、諮問機関として十分な機能を果たせていなかった」とする(同、13頁)。端的に言えば、デザインに関するマスターシップの不在がその主因だったようだ。勝見勝は「デザイン委員長に事務総長相当の権限を与えない限り、十分なコントロールは不可能である」と批判したが、結局万博全体のデザインを主導する強力な組織はつくられることがなかった。マスターシップの不在は大阪万博のデザインに関わったデザイナーたちによる座談会の席でも指摘されている(「座談会:EXPO'70のデザイン・システムとプロセス」『工芸ニュース』第38巻第3号、1970年11月、53~61頁)。優れたポリシーがあったとしても、それが貫徹できないならばデザインが成功したとは言えない。組織という点では「せんい館」の展示プロデューサーであった吉村益信が興味深い証言をしている。横尾忠則をはじめとする多くのクリエーターが参加し、伝説となったせんい館の建築や展示プロジェクトには「施主、クライアント・サイドとも初めから非常に激烈なみぞ」があったという。それにも関わらずプランを貫徹できたのは「コア・スタッフというものをつくって、そのあと一切クライアントが文句をいえないような主導権をきっちりつくった」からであると同座談会で吉村は語っている。この事例と対比すれば、デザイン懇談会が当初のポリシーを貫徹できなかった理由は、彼らが万博デザインの主導権を握ることができなかったためと考えられよう。
 万博が成功したがゆえのデザインの失敗とも言える現象もあったようだ。入場者数は当初計画の1.5倍、約6500万人に上った。長蛇の列とその誘導、会場内の動線の確保、トイレや休憩所の不足など、事後になって顕在化した多くの問題点に臨機応変に対応できなかったこともまた、組織と運営の問題であろう。亀倉雄策は福田繁雄によるピクトグラムを評価しているが、トイレのサインについては人々が男女の区別をできず、男子トイレに女性が並んでいたことを指摘している(もっともこれは女子トイレの不足が主因だったようだが)。当初はピクトグラムだけだったサインがわかりにくいとされたために文字表記が後付けされた例もあったという。
 本展では検証されていないが、クローズドな場である世界デザイン会議と、2週間の会期であった東京オリンピックと、半年にわたって開催された万博とでは、デザインポリシーを共通としても予算、組織、運用には大きな違いがあったはずである。大阪万博後の最初の国家イベントである札幌オリンピックでこれらの問題点はどのように処理されたのか。デザインは進歩したのかどうか。「札幌オリンピック1972 デザインプロジェクト」として、ぜひとも検証してもらいたいと思う。[新川徳彦]

関連レビュー

東京オリンピック1964 デザインプロジェクト:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

2015/04/15(水)(SYNK)

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ラース・ミュラー 本 アナログリアリティー

会期:2015/04/10~2015/05/30

京都dddギャラリー[京都府]

スイスを拠点に国際的に活躍する出版者でデザイナーのラース・ミュラー。彼の仕事を紹介する本展では、会場に設置された白いテーブルと壁面の小棚に100冊の書籍が並び、観客が手に取って読める図書室のような形式がとられた。グラフィック・デザイン展で出版メディアが並ぶ場合、実物に直接触れられる機会は思いのほか少ない。書籍が痛む可能性が高いからだ。本展ではリスクを承知した上で最も効果的な形式を採用しており、それはコンテンツに対して最適な形式と素材を追求するミュラーの仕事とも合致する。スイス・デザインの正しき継承者であるミュラー。筆者自身はその厳格さにしんどさを感じることもあるが、こうして彼の仕事を概観できたのは嬉しい限り。また、本展では建築家の藤本壮介が展示デザインを担当し、ミュラーの世界観と合致したミニマルな空間を作り上げていたことを付記しておく。

2015/04/16(木)(小吹隆文)

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菱沼勇夫「彼者誰」/「Kage」

会期:2015/03/31~2015/05/03

TOTEM POLE PHOTO GALLERY[東京都]

菱沼勇夫は1984年、福島県生まれ。2004年に東京ビジュアルアーツ卒業後、11年からTOTEM POLE GALLERYのメンバーとして活動している。
若い写真家が急に力をつけてくる時期があるが、いま菱沼にそれが来ているのかもしれない。今回の連続展を見てそう思った。「彼者誰」は、35ミリ判のカメラで撮影された、どちらかといえば「私写真」的な色合いの強い作品である。被写体を見つめていく視点に安定感があり、その場の光や空気感を的確に判断して端正な画面におさめていく。一見バラバラな作品をつないでいくキー・イメージが、もう少しくっきりと浮かび上がってくるといいと思った。
注目すべきなのは、もう一つのシリーズの「Kage」の方で、こちらは6×6判で撮影されたイメージが並ぶ。ヌード、仮面をつけたセルフポートレート、窓ガラスの割れ目、炎、馬の背中のクローズアップなど、「彼者誰」よりも象徴性が強まってきているようだ。それらもバラバラに引き裂かれてはいるが、自分自身の記憶や感情のほの暗い深みに降りていこうという意欲をより強く感じる。ただこのままだと、作者も観客もどこに連れて行かれるかわからない宙づりの状態で取り残されてしまいそうだ。そろそろ作品全体の構想をしっかりと思い描きつつ、個々の被写体をつかまえていくアンテナをさらに研ぎ澄ませていくべきだろう。
この連続展に続いて、5月20日~30日にはZEN FOTO GALLERYで、旧作の「LET ME OUT」の展示がある(同名の写真集も刊行)。12月には再びTOTEM POLE PHOTO GALLERYでの展覧会も予定しているという。溜めていたものを一挙に吐き出し、次のステップに踏み出していってほしい。

「彼者誰」2015年3月31日~4月12日
「Kage」4月14日~5月3日

2015/04/16(木)(飯沢耕太郎)

莫毅「80年代 PART1 「風景」、「父親」」

会期:2015/04/07~2015/04/22

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

1958年チベット生まれの莫毅(モイ)は、他に類を見ない独特の作風を育て上げてきた。まったくの独学で写真を始め、お仕着せの報道写真か、伝統的なテーマを繰り返すだけのサロン写真しかなかった中国の写真界で、文字通り体を張って意欲的な実験作を発表し続けてきたのだ。ZEN FOTO GALLERYでは、2回に分けて彼の作家活動の原点というべき1980年代の作品を取り上げる。今回のPART1では、1982~87年に撮影された「風景」、「父親」の2シリーズから、23点が展示されていた。
この時期、中国の社会は閉塞状況にあり、人々のフラストレーションは爆発寸前にまで高まっていた。チベットから大都市、天津に出てきた莫毅もむろんその一人で、鬱積した怒りの感情を抱いて、望遠レンズで街を舐め尽くすように撮影していったのが「風景」のシリーズである。そのタイトルには当時人気があった「田園風景」の写真に対する皮肉が込められているという。莫毅のような当時の若者たちにとっての父の世代の人物にカメラを向けたのが「父親」のシリーズで、彼らの虚飾や歪みを、冷静に距離をとって暴きだしている。思い出したのは、東松照明が1950~60年代初頭に撮影した「日本人」シリーズで、「地方政治家」(1957年)や「課長さん」(1958年)のアイロニカルな視点は、莫毅と共通しているのではないだろうか。
なお2016年1月開催予定のPART2では、莫毅の1987年以降の代表作が展示される予定である。1989年の天安門事件を挟んで、彼はより実験的でコンセプチュアルな作品を発表していくようになる。以前も本欄で書いたことがあるが、もうそろそろどこかで、このユニークな写真家の全体像を見ることができるような、大規模な展示を実現してほしいものだ。

2015/04/16(木)(飯沢耕太郎)

2015年05月15日号の
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