artscapeレビュー
2016年05月15日号のレビュー/プレビュー
analog(DIY印刷加工スタジオ)
[宮城県]
アーティストのO JUNさんらと展覧会の企画打ち合わせを兼ねて、仙台のDIY印刷加工スタジオ「analog」を訪問した。せんだいスクール・オブ・デザインのスタジオで前衛的な装丁の雑誌『S-meme』を制作していたときにお世話になった菊地充洋が運営している。いろいろな機械が設置されており、さまざまな印刷と製本加工の技術を使えるスタジオである。
2016/04/25(月)(五十嵐太郎)
「ジャック=アンリ・ラルティーグ 幸せの瞬間をつかまえて」
会期:2016/04/05~2016/05/22
埼玉県立近代美術館[埼玉県]
1970年代以来、「偉大なるアマチュア写真家」ジャック=アンリ・ラルティーグの写真は、展覧会や雑誌の特集などを通じてたびたび紹介されてきた。ベル・エポックの輝きを軽やかに具現化した、彼のスナップショットの魅力を知る人も多くなり、正直、今回の埼玉県立近代美術館のラルティーグ展の企画の話を聞いた時に、同工異曲の展示を見せられるのではないかと思ってしまった。ところが、実際に展示作品(約160点)を見て、われわれがこれまで享受してきたラルティーグの写真の世界は、ほんの一部であることがよくわかった。生涯に130冊以上の写真アルバムと、11万カット以上の写真原板(ネガ)を残したという彼の写真は、想像以上の広がりを備えているのだ。
今回特に興味深かったのはカラー写真である。ラルティーグは1912年から、最初期のカラー写真技法であるオートクロームの製作に取り組み、戦後の1950年代以降はリバーサル・カラーフィルムを使って撮影している。それらは全作品数のうち約3分の1を占めているという。ラルティーグのモノクローム写真は、躍動感あふれる奇抜な演出に特徴があるが、カラー写真は露光時間が長かったこともあって、ややスタティックで絵画的な印象を与える。特筆すべきは、そのみずみずしくヴィヴィッドな色彩感覚で、それは彼が画家としての経験を積んでいたことと無関係ではないはずだ。ラルティーグのカラー写真は、2015年にパリで開催された「ラルティーグ、彩られた人生」(Lartigue, La vie en couleurs)展で初めて本格的に紹介され、大きな反響を呼んだ。本展では後半部分にカラー作品が40点ほど出品されていたが、今後はそちらを中心にした展示も考えられるのではないだろうか。
ほかに、1914年にラルティーグの指揮の下に一家が勢揃いして制作された「盗賊と妖精」と題する映画が上映されるなど、アルバムや日記を含む資料展示も充実している。彼の写真がもたらす幸福感が、会場全体を包み込んでいたように感じる。
2016/04/26(火)(飯沢耕太郎)
ルノワール展
会期:2016/04/27~2016/08/22
国立新美術館[東京都]
名古屋では「ルノワールの時代」展をやってるが、あちらはボストン美術館所蔵、こちらはオルセー美術館とオランジュリー美術館所蔵だ。どうせなら合体してほしいところだが、そうはいかない大人の事情があるらしい。まあんまり興味ないんでどっちでもいいけど。そうなのだ。ぼくはどうしてもルノワールを好きになれないのだ。ならなんで見に行ったのかというと、なぜぼくはルノワールが好きじゃないかを知りたかったからだ。で、なにがわかったかというと、結局ルノワールは光とか時間といった抽象的な思考より、ただ人を描くことが好きだったんだということだ。ある意味、画家としては珍しく幸せな人生を送ったんじゃないかな。だから見る者としては物足りない。やっぱり他人の苦労や不幸の結晶を見たいわけですよ観客は。展示構成は、目玉の《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》と、《田舎のダンス》《都会のダンス》の連作を向い合わせに配し、その間のスペースを広くとって予想できる混雑にあらかじめ対応しようとしているのがイヤな感じだった。
2016/04/26(火)(村田真)
アピチャッポン・ウィーラセタクン「光りの墓」
会期:2016/04/09~2016/05/06
テアトル梅田[大阪府]
タイの映画監督・映像作家、アピチャッポン・ウィーラセタクンの最新作。出身地であるタイ東北部イサーンを舞台に、寓話めいた物語が緩やかに進行し、政治批判の暗喩と、光と風にあふれた穏やかな詩情が共存する。
廃校になった学校を改装した病院に、原因不明の「眠り病」にかかった兵士たちが収容されている。事故で足に障害を抱え、松葉杖をついた中年女性のジェンが、ボランティアで兵士たちの世話をしている。窓の外の元校庭では、軍の管理下でショベルカーが地面を掘り返している。病室には、「アフガン帰還兵にも効果があった」と医師が説明する奇妙な柱状のライトが運び込まれ、緑、赤、ブルー、ピンクと幻想的に色を変える光が、植物状態で昏睡する兵士たちの治癒にあたる。しかしSF的な装置の傍らでは、死者の霊や他人の夢と交信できる霊的な世界が広がっている。ジェンの前に現われた2人の若い女性は、自分たちは古いお堂に祀られている王女であると言い、「病院の下には古代の王たちの墓があり、彼らは眠る兵士たちの生気を吸い取って今も戦い続けている」と告げる。そして、ジェンが息子のように世話する若い兵士イットは、死者の魂と交信できる女性の身体に眠りのなかで入り込み、彼女の身体を媒介として、かつての王宮の豪華な室内へと案内する。しかし、そこは破壊された偶像が横たわるだけの林であり、何もない空虚が広がっている……。
(元)学校、病院、軍隊というラインは、「規律化され集団的に管理される身体」を強く意識させる。過去の栄華の痕跡もない、「不在の王宮」の虚構性。冗談めかして「スパイじゃないの?」と口にする人々。映画館では、国王をたたえる歌と映像が流れる際に人々は起立するが、スクリーンには何も映らない。これらは、タイの政治的現状への批判を示唆する。治療に用いられる光と、映画館で人々が見つめる光。兵士たちの「眠り病」は、現実からの逃避や感覚の麻痺を思わせるが、それは逃走であり闘争でもある。兵士イットは、身体と意識を何者かに拘束されつつも、夢のなかで意識を自由に飛ばし、傷ついた孤独な者に癒しと覚醒の方法を授けることができる。しかし、見開かれて虚空を凝視する目は、戦慄的な覚醒とも、魂を抜かれた半睡状態ともつかない。軍のショベルカーは、地面を掘り返しているのか、何かを埋めて隠蔽しようとしているのか。「目覚めたい」というジェンに、「僕は眠っていたい」と答えるイット。夢の中と現実、重なり合わない世界にそれぞれ生きる2人は、シャーマンの身体を媒介にしないとつながることができない。世界は至るところで傷と綻びに満ちているが、だからこそ同じくらい深い恩寵で満たされてもいる。
2016/04/27(水)(高嶋慈)
「京都国際写真祭」
会期:2016/04/23~2016/05/22
京都市美術館別館ほか[京都府]
4回目を迎えた「京都国際写真祭」(KYOTOGRAPHIE)。2013年の初回を見た時には、どれだけ続くのかと心もとなかったのだが、質量ともに飛躍的に向上している。今回は「いのちの環」をテーマにしたメインプログラムが13会場で開催されたほか、サテライト展示の「KG+」、関連企画など、50以上の展覧会が開催された。かなり広い地域に散らばっているので、一日ではとても全部回りきれないが、それでも、何日か滞在してじっくり見てみたいと思わせる魅力的な企画が目白押しだった。主催者の仲西祐介とルシール・レイボーズがめざしているのは、「国際的に通用する写真祭にする」ということだが、その志の高さが全体の雰囲気を盛り上げているように感じる。
KYOTOGRAPHIEの特徴のひとつは、美術館やギャラリーだけでなく、京都らしい寺院や町家などの空間を活かした展示が多いことだろう。フィンランド出身の写真家、アルノ・ラファエル・ミンキネンの「YKSI: Mouth of the River, Snake in the Water, Bones of the Earth」(建仁寺内両足院)では、作品が建物の中だけでなく、日本庭園内にも配置されていた。町家の座敷に作品を並べた古賀絵里子の「Tryadhvan(トリャドヴァン)」(長江家住宅)、「マグナム・フォト/EXILE─居場所を失った人々の記憶」(無名舎)、蔵の中に写真と漂流物でつくったランプを展示したクリス・ジョーダン+ヨーガン・レールの「Midway:環境からのメッセージ」(誉田屋源兵衛 黒蔵)も見応えがあった。
インスタレーションやライティングに気を配った「見せ方」にこだわっているのも、KYOTOGRAPHIEの特徴で、昨年逝去した報道写真家、福島菊次郎の「WILL:意志、遺言、そして未来」展(堀川御池ギャラリーほか)では、写真パネルを鉄パイプや鉄の箱を使ったソリッドな装置を組んで展示していた。海洋生物学者のクリスチャン・サルデの写真映像を、高谷史郎が床置きの複数のモニターで上映し、坂本龍一がサウンドをつけた「PLANKTON 漂流する生命の起源」(京都市美術館別館2階)も、高度に練り上げられたインスタレーションを愉しむことができた。
予算的にはかなり厳しいようだが、このクオリティを保ちつつ、「国際写真祭」としてのさらなる広がりを期待したい。将来的には、東川町国際写真フェスティバルのような先行する地域写真イベント、またアジア各地の写真祭などとも相互交流を図ってほしいものだ。
2016/04/27(水)(飯沢耕太郎)