artscapeレビュー

2016年05月15日号のレビュー/プレビュー

生誕150年記念 中村不折の魅力

会期:2016/04/30~2016/07/24

中村屋サロン美術館[東京都]

生誕150年というから黒田清輝と同い年。パリに留学し、ラファエル・コランに師事したというのも黒田と同じ。なのに黒田と大きな差がついたのは、不折の留学が黒田より20年近く遅かったこと、もうそのころには帰国した黒田の尽力により曲がりなりにも近代絵画が根づき始めていたこと、新派と呼ばれた黒田に対して不折は旧派の画家に学んだこと、「書は美術ならず」といわれた時代に書も手がけたこと、要するに時代に乗り遅れたってことだ。でもその屈折した心情が絵に奥行きを与える場合もあるからおもしろい。同展は油絵15点ほどに人体デッサン、水彩、水墨画、本の表紙絵、中村屋の看板まで約50点の中規模な展示。

2016/04/28(木)(村田真)

世界遺産 ポンペイの壁画展

会期:2016/04/29~2016/07/03

森アーツセンターギャラリー[東京都]

そもそも「壁画展」などグラフィティの展覧会と同じで矛盾のかたまりだが、それでも「ポンペイの壁画展」は数年にいちどの頻度で開かれている。ならば「ラスコーの洞窟壁画展」も企画してほしいと思っていたら、今秋科学博物館で開かれるそうだ。といっても原寸大レプリカや3D映像がメインらしいが。話を戻すと、日本に来ているポンペイの壁画もひょっとしたらレプリカだったりして。いや疑ってるのではなく、それほど色がきれいなのだ。昔見たポンペイの壁画はもっとひび割れだらけで、色彩もくすんでいたように感じるのは気のせいか。特に「エジプト青の壁面装飾」と呼ばれるフレスコ画の青(水色)と赤の対比はこの上なく美しいし、また、土色だけで群像を表現した《赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス》の描写力は見事というほかない。でも今回興味深かったのは、かすかに字が読み取れる「グラッフィーティのある壁画」と、描きかけの顔料がそのまま固まってしまった「顔料入りの小皿」。どちらも完成された壁画より現場感が漂っている。

2016/04/28(木)(村田真)

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大岩オスカール「世界は光に満ちている」

会期:2016/04/28~2016/05/22

アートフロントギャラリー[東京都]

相変わらずだなあ。都市や環境への批判的まなざしを、だまし絵みたいな細工を施してユーモラスに描き出す。この基本姿勢はいまも、20年以上前に東京で発表し始めたころとほとんど変わってない。大してうまくもなってないが、ヘタにもなってない。変わりばえしないともいえるが、一貫した強い意志を保ち続けていることに驚く。わずかに変わったとすれば、筆跡が強調されて意味だけでなく絵画性が強められたことだろうか。本人も相変わらずだ。顔も体型も見た目には20年間ほとんど変わっていない。

2016/04/28(木)(村田真)

WITHOUT THOUGHT Vol.15 駅 STATION

会期:2016/04/27~2016/05/15

東京ミッドタウン・デザインハブ[東京都]

「Without Thought」とは「思わず」の意。プロダクト・デザイナー深澤直人が主宰するデザイン・ワークショップの15回目は、駅とその周辺で人々が無意識のうちに行なうさまざまな行動、視野、願望が、モノやヴィジュアル、スマホアプリのかたちで具現化される(とはいえ、すべて架空のプロトタイプだ)。例えば東京メトロの路線を表わす色の輪がカラフルなアイシングでコートしたドーナツに見立てられている。食べ物関係では、駅スタンド蕎麦のカップ麺、一見金属製のレールに見える羊羹、電車の車両かプラットホームのように細長いざるそばの器などに、ニヤリとさせられる。爪先が黄色く塗られた子供用のズックはプラットホームの黄色い線とぴたっと揃う。揃った瞬間はきっと気持ちがよい。ということはこのズックを履いた子供は意図せず黄色い線の内側に立つことになる。線路の向こう側に掲げられたゴルフ場の広告写真からは、電車を待つ間に傘でスウィングする(迷惑な)おじさんの姿が(そこにはいないけれども)見えてくる。縦半分サイズの細長い新聞は10年前であれば本当にあって欲しいと思ったかもしれないが、満員電車のサラリーマンのほとんどがスマホとにらめっこしている現在では紙メディアが生き残るための提案とみるべきか、それともスマホが発明されなかった平行世界の新聞なのか。ほかに、歩きスマホの転落防止アプリ(画面に黄色い線が表示される)や、いまどこの駅にいるのかがわかるアプリ(フェイスブックのタイムラインや視聴している動画のあいだに駅名標が表示される)など、実用的な提案のなかに見せ方が優れているものがある。実はチラシにも使われている手拭いの意匠が意図するところがすぐには分からなかったのだが、それと気がついたときに「思わず」膝を叩いてしまった。[新川徳彦]

2016/04/28(金)(SYNK)

雑貨展

会期:2016/02/26~2016/06/05

21_21 DESIGN SIGHT[東京都]

「雑貨」とはなんだろう。展覧会序文は「その定義は曖昧にして捉えどころがありません」という文章で始まる。しかし、曖昧であってもなにかを定義しなければ展覧会にはならないだろう。「今あえてゆるやかに定義するならば、『雑貨』とは『私たちの日常の生活空間に寄り添い、ささやかな彩りを与えてくれるデザイン』といえるでしょう」と序文はつづく。ゆるやかすぎて、わかるようなわからないような定義だ。実際の展示物を見てみるとどうか。まさしく雑貨である。ガラスのコップだったり、金属のカトラリーだったり、籐の籠だったり、プラスチックの腰掛けだったり、一つひとつのものにはそれぞれの名称があり、ジャンルがある。しかし、それらの集合体は雑貨としか言いようがない。これらの中から食事に必要な道具だけを集めればそれは食器だし、薬罐や鍋、ザルを集めれば金物だ。ペンやノート、消しゴムを集めれば文房具というジャンルだ。しかしそれらがシャッフルされると「雑貨」としか呼びようのない不思議な集合体になる。
一つひとつのものを取り出すと、それは雑貨ではない。コップはコップ、スプーンはスプーンである。雑貨が雑貨であるのは用途を持った多様なジャンルの品が集まっているからだ。そうした集合が見られる場は主にそれらを売る店──すなわち雑貨店である。それでは雑貨店とはどのような店なのか。山方石之助編『秋田案内』(明治35年)は、雑貨店(小間物商)の扱うものとして「紙、煙草、文房具、袋物、金銀細工、洋傘、革包類、毛布、膝掛、石鹸、歯磨、香水、其他の男女装飾品、茶、時計、家什、帽子、靴、洋酒類、絵草紙、おもちや類」と多種多様な商品を挙げている★1。しかし、ただなんでもあればいいというものではない。清水正巳『洋品雜貨店繁昌策』(大正11年)は雑貨店を「ハイカラなよろづやだ」とする★2。雑貨店にはただ多様な品があるだけではなく、テーマがあるのだ。そこが「よろづや」との違いだ。明治大正期の雑貨店のテーマは「ハイカラ」であり、そこはモノを売るだけではなく、人々にライフスタイルを売る場でもあった。
展示に戻ろう。銀座の店から集めた石鹸や化粧水瓶など洋風なものもあるが、ここに集められた「雑貨」は必ずしも「ハイカラ」ではない。アルマイトの薬罐も、竹で編まれたザルもハイカラとはいえない。ハイカラは明治の終わりから昭和の初めにかけての「雑貨店」のテーマであり、この展覧会には異なるテーマで「雑貨」が集められている。ではそのテーマがなにかといえば、解説には謳われていないが、おそらく「アノニマス・デザイン」だ。本展のディレクター深澤直人は日本民藝館の5代目館長。アノニマスな工芸の美を見出した柳宗悦と、アノニマスな工業製品の美を讃えた柳宗理の系譜に深澤が連なると考えれば、ここに集められた「雑貨」を貫くテーマに「用の美」と「アノニマスなデザイン」があると考えてもおかしくない。ここに集められたモノには「用」がある。ここに集められたモノの大部分は「用」に従ってデザインされている。しかし誰がデザインしたものなのかはわからない。わかったとしてもそれは問題ではない。それぞれのモノには「用」があるけれども、もともとのつくり手の意図とは異なる文脈で評価され、使われることもある。民藝もアノニマス・デザインも、そして雑貨も、重要なのは見出すという行為だ。「雑貨店」はテーマを持って「見出し」「集め」たものを通じてライフスタイルを「売る」店。「雑貨展」は「見出し」「集め」たものを通じて、人々にライフスタイルを「見せる」展覧会。モノを媒介として提案されるライフスタイルへの共感や、モノをトリガーとして呼び起こされる私たちの記憶が、雑貨の魅力を形づくっている。[新川徳彦]

★1── 山方石之助編『秋田案内』(明治35年、21~22ページ)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763197/34
★2── 清水正巳『洋品雜貨店繁昌策』(大正11年、4ページ) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971666/14

2016/04/28(金)(SYNK)

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2016年05月15日号の
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