artscapeレビュー
2016年05月15日号のレビュー/プレビュー
花代&沢渡朔「点子」
会期:2016/04/02~2016/05/14
GALLERY KOYANAGI[東京都]
面白い構成の写真展だ。1996年、当時ドイツに在住していたアーティスト・写真家の花代の長女として誕生した点子の0歳から18歳までを、花代自身と沢渡朔が撮影した写真で辿っていく。東京・銀座のGALLERY KOYANAGIの壁面に撒き散らすように並んでいた写真の数は215点(ほかに映像作品1点)。二人の写真の区別は、花代の作品が虫ピンで、沢渡のそれがクリップで留められていることでわかるようになっていた。
花代の写真は家族アルバムの延長のようなテイストで、写真の大きさもプリントの仕方もバラバラ、その眼差しは点子の成長に沿うように、揺らぎつつ伸び縮みを繰り返している。それに対して、点子が15歳で「東京に移住」してから撮影されはじめた沢渡の写真は、プロフェッショナルな写真家の視点で、少女から大人へと脱皮していく微妙な年頃の彼女の姿を捉えていく。その対比が面白いだけでなく、撮り手とモデルとのあいだの関係の密度や綾が、写真に微妙なかたちで写り込んでいるのが興味深い。ただ、普通の家族アルバムと決定的に違っているのは、花代も沢渡も、記号化された「子供らしさ」や「女の子らしさ」にもたれかかることなく、むしろそれらを超越した、見方によっては蠱惑的でもある、魔物めいた禍々しさを点子から引き出していることだろう。
このシリーズは点子が「東京と花代を離れる」ことで、一応は終わってしまうようだが、もう少し見てみたい気もする。もし点子が将来子供を産んだら、その子の写真も取り込んでしまうようなシリーズとして増殖していくのではないかとも夢想するのだ。なお、展覧会にあわせてCase Publishingから同名の写真集(田中義久のデザインが冴えわたっている)が刊行されている。
2016/04/06(水)(飯沢耕太郎)
仙谷朋子「Life」
会期:2016/04/01~2016/04/30
nap gallery[東京都]
仙谷朋子は1975年生まれ、東京藝術大学美術学部彫刻科を卒業後、同大学院美術研究科を2000年に修了し、主に写真作品を中心に発表している。今回のシリーズは、勤務先の東海大学の海洋調査船に乗り組んで、39日間を赤道直下の南太平洋で過ごした体験を元にしたものだという。つまり「海の上のlife」というわけだ。
僕も多少は経験があるが、船の上では地上とはまったく異なる身体感覚を味わうことができる。つねに足元が揺れ動いている不安定な状況は、視覚や聴覚を狂わせ、精神的にも大きな変動をもたらすだろう。仙谷にとっても、その体験はひどい船酔いも含めて相当に強烈なものだったようだ。だが、あまりにも「キョーレツでありキツかった」ために、2012年のその航海の体験を作品化するにはかなりの時間がかかってしまった。逆にいえば、それだけ時間をかけて熟成したからこそ、クオリティの高いシリーズに仕上がったのではないかと思う。
展示作品は全9点。海面のイメージに球体をフォトグラムの手法で焼き付けた大作、「架空の南半球の星座」を構成した作品、船窓を思わせる円形の画面に海と鳥のイメージを封じ込めた作品から成る。「海の上のlife」を直接的に(ドキュメント的に)再現したものではないが、個人的な体験を普遍的なそれへと昇華することによって、なかなか味わい深い、非日常のなかの日常の手触りが感じられるようになっていた。「life」というテーマは、さらにいろいろなかたちで変奏できそうな気がする。ぜひ、このシリーズの続きを見てみたい。
2016/04/07(木)(飯沢耕太郎)
Q「ふくらはぎにおQをすえる~シャルピー編~」蒼いものかvol.3
会期:2016/04/08~2016/04/10
pool桜台[東京都]
市原佐都子が主宰するQの新作上演。その前半。タイ人ということなのだろうか、東南アジア系の女性に扮した女の子がコミカルなポーズを交えながら観客に向けてしゃべりまくる。それが一言も分からない。おそらく食堂で働いていて、客とのいさかいを話題にしているようだ。動作のリズムだけではなく、言葉もリズミカルなので、細部が分からなくとも見入ってしまう。そもそも女の子がしゃべっている言葉は、ぼくが理解できないというよりは、市原が自由に創作したデタラメ語だろう。そうなると、この言語を理解できる人は一人もいないわけだ。誰一人として理解できない言葉で突き進んでいく演劇。まずこれに驚いた。徹底して観客に媚びない舞台はQの専売特許だけれど、観客が分からないなりに分かった気になる状態に陥るのも織り込み済みで、さて、この「分からないなりに分かる」という「間違いながら突き進むしかないコミュニケーション」という事態こそ、Qが前提にしている誠実な人間と人間の関係ということなのだろう。後半、もう一人の女(日本人)が入ってきて、ことは重層化する。アパレル関係の仕事で東南アジアに来ている潔癖症の彼女は、アジアの食べ物が口に合わないし、食堂の女の子が動物に見えてしまう。異文化との接触から起こる女の子の変容が丁寧に描かれる。生理的な身体レヴェルの反応をベースに、「今日の日本女性」の感性にデリケートに迫る力量は、今回も素晴らしかった。
2016/04/08(金)(木村覚)
神村恵・福留麻里「あさっての東京」
会期:2016/04/08~2016/04/10
STスポット[神奈川県]
神村恵と福留麻里が構成・演出・振付の一作。言葉と身体動作の関係がとても興味深い作品だった。冒頭、二人が並び立ち、次に神村一人が残ると、手にした「い・ろ・は・す」を指して「これやります」と一言。「い・ろ・は・す」を床に置くと、「い・ろ・は・す」を模倣し始めた。今度は福留が「これやります」と別のものを指して模倣を始める。その模倣に時間の要素が加わる。「これの10分後をやります」。ある時は、突然、最前列の観客を手招きし、椅子に座らせて、その観客の「60年後をやります」と口にし、福留は老いた体を「模倣」して見せた。「10分前をやります」とか「1年後をやります」とか、時間に関連する言葉が発せられると、観客はおのずとなんとなくそれはこういうものかなと曖昧なイメージを思い浮かべてしまう。神村や福留は、その言葉を発した後、ポーズをとったり、小さく動いたりする、すると観客は自分が思い浮かべたイメージと目の前の身体とを並べたり比べたりすることになる。普通、ダンス上演には言葉は持ち込まれない。そして、動作は抽象的であることが多い。観客は目の前の動作がダンサー(振付家)のどんな意図に動機づけられているのかを探りながらも、しばしば探りきれずに抽象的な動作を見ることになる。ときに観客は動作に潜む真意を追いかけづらくなる。それに対して、今作での言葉は、観客と神村・福留の二人を結ぶひとつの場になっていた。もちろんここでの言葉と身体の関係は、言葉が答えで身体がその答えに迫る、といった単調なものではない。もっと謎めいていて、その分豊かなものになっている。これは少しだけものまね芸に似ている。ものまね芸も最初に模倣する対象を伝え、次に模倣を実演するから。模倣対象のイメージと模倣した内容が一致することよりもむしろずれていることで、観客は笑う。この構造に近いとも言えるが、二人は笑いを求めているわけではなく(観客はときに大いに笑ったが)、置かれた言葉から喚起されたイメージと目の前の身体動作との距離を測ることが遊びとして用意されているようだった。観客の心の動きを「言葉」が置かれることで、いわば「振り付ける」作品だったといえるのかもしれない。
2016/04/08(金)(木村覚)
生誕140年 吉田博展
会期:2016/04/09~2016/05/22
千葉市美術館[千葉県]
吉田博(1876~1950)の名前は新版画の作品で知ったので、長らく彼を版画家と認識していた。それゆえ、最近になって東京国立博物館で吉田博の油画《精華》(1909年)を見てとても驚いた覚えがある。じっさいには、吉田博は水彩画からスタートして油彩をマスターし、版画を手がけたのは40代の終わりになってからのことである。版画を始めてからも並行して水彩、油彩の絵を描いている。後半生の約20年間に制作された250種ほどもの版画作品が多くの美術館に収蔵されていることが、版画家・吉田博の印象を強くしているのだろう。
版画家としての吉田博の知名度は川瀬巴水(1883~1957)に及ばないかも知れないが、巴水が「スティーブ・ジョブスに愛された版画家」ならば、博は「ダイアナ妃に愛された版画家」だ。故・ダイアナ妃はケンジントン宮殿の執務室に博の版画を飾っていた。第二次世界大戦終戦直後、マッカーサー総司令官夫人、リッジウェイ司令官夫人が博の家を訪ねたという話もある。心理学者フロイトの書斎にも博の版画が掛かっていたという。福富太郎コレクションの最初の一枚は、博の水彩画《朝霧》なのだそうだ。版画に限らず、吉田博の作品は海外での評価が高く、また知名度もある。
博を語るキャッチフレーズは他にもある。明治27年から32年まで、不同舎・小山正太郎に入門して鉛筆画と水彩画を修行したころの博は「絵の鬼」とあだ名されていた。博はまた「黒田清輝を殴った男」とも呼ばれた。明治40年3月、東京府勧業博覧会の審査を巡る騒動で、太平洋画会のリーダーであった博は白馬会系に偏った審査の不公平を訴え、褒状返還運動の首謀者となる(このとき川村清雄が西洋画審査員を辞している)。以前からの白馬会系に対する博の反発もあって、このときのエピソードが後に「黒田清輝を殴った」と噂されたのだ。ロビーで上映されている展覧会紹介映像のタイトルは「痛快 吉田博伝」。講談師によるナレーションで初渡米における冒険と成功が語られるほか、黒田とのエピソードにわざわざふたりの作品を並べて見せるところ、なかなかの仕掛けである。
博はまた「山と水の画家」である。30代前半から50代前半までの20年間、ほぼ毎夏、1ヶ月から3ヶ月にわたって山にこもり、絵を描いた。「日本アルプスは全部登った」と豪語するその登山は本格的で、昭和6年に出版された博の著書『高山の美を語る』は、山の案内書となるほどの内容であるという。博の水彩、油彩、版画には、その地を踏んだ者にしか見ることができないであろう山の美が描かれている。飛沫をあげながら流れる渓流の表現もすばらしい。
吉田博が版画を始めたのは大正9年のこと。渡邊版画店・渡邊庄三郎を版元に8点の作品を手がけた後、大正14年、49歳の時に自ら彫師と摺師を抱えて私家版版画の制作を始めた。モチーフは水彩画同様に国内外の山や風景が中心。「昭和の広重」と呼ばれた巴水とは異なり、洋画の表現、水彩画のタッチを版画に写すことに腐心した様子がうかがわれる。インドに取材した《フワテプールシクリ》(昭和6年)のアラベスク模様の格子窓に滲む光の表現は木版画のものと思えない美しさ。47度摺りというこの作品は、どのように摺ったのか見当もつかない、驚くべき作品だ。渡邊庄三郎の版画は欧米をマーケットとして、外国人のエキゾチシズムを刺激する作品づくりが見て取れるが、吉田博の私家版はそのような趣向をあまり感じさせない。とはいえ、彼が売れる作品を意識していたことは間違いないので、ならば何が海外の人々──とくに米国人に高く評価されたのか、興味は尽きない。
本展にはこれら代表作のほかに従軍画家としての作品、スケッチブック類、博が撮影した写真などの資料が出品されている。今年2016年は吉田博の生誕140年。本展は1996年に福岡市美術館他で開催された展覧会以来、20年ぶり、2度目の回顧展で、出品点数は前回展の2倍以上だという。郡山市美術館(2016/6/4~7/24)、久留米市美術館(2017/2/4~3/20)、上田市立美術館(2017/4/29~6/18)、東郷青児記念損保ジャパン日本興和美術館(2017/7/8~8/27)に巡回する。[新川徳彦]
2016/04/08(金)(SYNK)