2020年01月15日号
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artscapeレビュー

2011年05月01日号のレビュー/プレビュー

ベッティナ・ランス写真展

会期:2011/03/26~2011/04/24

CHANEL NEXUS HALL[東京都]

ベッティナ・ランスによる写真展。2005年に撮影された「Héroïnes」シリーズから23点のポートレイトが展示された。オートクチュールのドレスをリメイクした衣装をまとったモデルはすべて違うものの、いずれの写真にも共通しているのは石室のようなロケーション。無機質で寒々しい空間が、最先端の服飾と磨き上げられた身体を冷たく照らし出している。ところが、一般的なファッション写真と違い、どこかで奇妙な違和感を覚えるのは、おそらく彼女たちの身体の細部にわずかな傷や汚れが残されているからだろう。石室の粉塵だろうか、手足の指先は灰色に塗り上げられたままで、ところどころに小さな擦り傷も目視できる。嘘と加工を重ねながら美を極限まで追究するファッション写真をちょうど裏返しにしたような写真だ。

2011/04/02(土)(福住廉)

EV(電気自動車)が約束する未来展

会期:2011/03/20~2011/04/05

世田谷文化生活情報センター「生活工房」[東京都]

電気自動車の歴史、日本EVクラブや生活工房がこれまで行なってきた電気自動車普及活動の報告、電気自動車にまつわる疑問への答え、そしてこれからの電気自動車に対する企業の取り組みを紹介する展示会である。
電気自動車の開発が推進される理由はおもにふたつある。ひとつは、石油資源の将来的な枯渇と価格高騰への備えである。もうひとつは、化石燃料の使用がもたらすといわれる地球温暖化への危惧である。電気がクリーンなエネルギーであることが、その大前提になる。しかしながら、この展覧会が始まる直前、3月11日に発生した東日本大震災により生じた東京電力福島第一発電所の「想定外」の事故によって、電気はクリーンなエネルギーであるという前提が崩れてしまった。もちろん、電気は原子力発電によってのみつくられるわけではない。しかし、現時点での電気自動車は、その普及に深夜の余剰電力を前提としている。また、脱化石燃料が電気自動車普及への大きなモチベーションになっているので、火力発電による電力供給はその目的に逆行する。展覧会に関連して開催された日本EVクラブの舘内端代表のトークにおいても、「EVは原発と共犯なのか?」というテーマで議論が盛り上がったという。
会場には、電気自動車オーナーに取材したレポートも掲出されていた。いずれも排気ガスが出ないことを電気自動車のメリットのひとつとしてとらえているようだ。会場の通路には明るい緑色のカーペットが敷かれ、同系色のビニルひもを用いた簡易な間仕切りが下げられている。展示パネルには、車から植物の芽が出るシンボルマークが添えられている。エコ一色である。しかし電気自動車によって本当に問題は解決されうるのだろうか。疑問は残る。自分の足下はきれいになったとしても、排気ガスの出る先が火力発電所の煙突に変わっただけということはないのだろうか。原子力発電は問題を空間的に地方へ、時間的には未来に転位させてきたとはいえないのだろうか。デザインには問題を明らかにし、それを解決に導くチカラがある。一方で問題を覆い隠し、あたかもそれが解消したかのように見せかける作用もある。電気自動車の利用によって化石燃料に起因する問題の本質が解消されうるものなのか、そこにデザインがはたしている役割も常に検証していかなければならないだろう。当初の意図とは異なるかもしれないが、この展覧会は自動車、あるいは私たちが享受しているさまざまな利便性とエネルギー消費との関わりを考え直す、とても良い企画であった。[新川徳彦]

2011/04/05(火)(SYNK)

安喜万佐子 展 Absence of Light──歩行と逆光

会期:2011/04/05~2011/04/16

ギャラリー16[京都府]

瞼を閉じて暗闇を見つめると、不可思議な光や模様が眼前に映る。見ようとすればするほど捉え難いその情景。安喜万佐子の作品を見ていると、そんな体験を思い出さずにいられない。基本的に風景をもとに描いている安喜だが、彼女の狙いは再現的な情景描写ではない。記憶と現実を往来し、残像とでもいうべきものをなんとかして画面に定着させようと格闘しているのだ。近年は金箔を用いてソラリゼーションのような効果を狙った作品も発表。着実に自己の世界を深化させている。

2011/04/05(火)(小吹隆文)

梅田哲也 個展『はじめは動いていた』

会期:2011/04/02~2011/04/24

VOXビル(art project room ART ZONE)[京都府]

ありふれた道具や雑貨を組み合わせて、可動型のオブジェを制作する梅田哲也。しかも彼の作品は、「風が吹けば桶屋が儲かる」的にひとつの動きが他に次々と波及する点に特徴がある。そういう意味では、ビル一棟を使って大規模な仕掛けを行なうのは、彼ならではの試みと言えるだろう。実際、迷路のような空間を縦横に行き来するのは楽しい体験だった。ただ、作品の連動性という点では少々不満も。全体にもっと有機的な統一性を持たせることができれば、さらにワンランク上の感動を与えられただろうに。

2011/04/05(火)(小吹隆文)

わたしを離さないで

会期:2011/03/26

Bunkamura ル・シネマ[東京都]

自らに課せられた宿命を静かに受け入れること。あるいは、無常の風に逆らうことなく、儚い諦念とともに理不尽な死を迎え入れること。沢木耕太郎が的確に指摘したように、本作は英米映画であるにもかかわらず、じつに日本的な印象を感じさせる映画である。臓器移植やクローン技術といったテーマが物語に独特の緊張感を与えているが、登場人物の若者たちは不当な運命に抗うこともないまま、物語は淡々と進行する。その静かな佇まいは、一見するとあまりにも非人間的な身ぶりに見えなくもないが、しかしキャリー・マリガン演じる主人公が好意を寄せる幼馴染の男を親友に横取りされるなど、甚だ人間臭いドラマがないわけではない。けれども、それにしても親友から男を奪い返すことはなく、ただひたすらじっと耐えるだけなのである。抵抗や闘争、あるいは反逆の欠如。すべてを受容する寛容性と困難を耐え忍ぶ忍苦の精神。このような「日本的」とされがちな特質は、欧米の風土からすれば奇特な美しさに見えるのかもしれない。しかし、現在まさに原発の危機に襲われている当事者の視点から見ると、多少の苛立ちを覚えないでもない。不幸の要因を宿命に帰着させたところで、状況は少しも改善しないばかりか、むしろ決定的な破滅を招き寄せかねないことは明らかだからだ。この映画の若者たちも運命に抗わないわけではない。ただし、一抹の希望があっけなく途絶えてしまうと、それ以上の抵抗を展開することはなく、ただ悲痛な絶叫を繰り返すだけなのだ。ほんとうに悲しいのは、抵抗の身ぶりや拒否の意思を自ら内側に封じ込めてしまうことである。これを「美しい」なんて言うな。

2011/04/05(火)(福住廉)

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