2020年01月15日号
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artscapeレビュー

2011年05月01日号のレビュー/プレビュー

4.10原発やめろデモ!!!!!!!!!

会期:2011/04/10

高円寺一帯[東京都]

今回の福島第一原発の大事故でもっとも恐ろしいのは、放射能の流出と拡散が眼に見えないばかりか、知覚することすらできない点である。インターネットを駆使することで地球の隅々まで視覚化する全能感に酔いしれていた現代人は、ここにきてまったく眼に見えない脅威と直面せざるを得なくなったわけだ。しかも、この新たな脅威はいま、原発推進派の知識人とマスメディアによって社会に順応させられつつあり、さらに私たちの視線が及ばない底に隠されようとしている。しかし、原発の危険性は自動車に乗れば交通事故に巻き込まれるリスクが高まるのと同じだという(屁)理屈を鵜呑みすることなど到底できるわけがない。この拒否の意思を表明するもっとも有効な手段は、いまのところデモである。二重の意味で不可視の脅威とされている放射能を拒否するのであれば、何よりもまず否定の意思を可視化しなければならないからだ。「いやだ」という思いを眼に見えるかたちに結集すること。この日、高円寺の「素人の乱」の呼びかけに応えて集まった1万人以上の人びとは、党派性や思想性、あるいは音楽性や芸術性の相違を超えて、とにもかくにも、この「いやだ」という一点を頼りに辛うじて形成された群衆だった。路上から群衆に加わる人もいれば、車道を練り歩く群衆を冷ややかに見つめる人もいた。問題の大きさから言えば、15,000人という動員数は決して多くはないのかもしれない。けれども、このデモは、原発をソフトランディングさせようとする社会に対して明白に拒否の意思を突きつける機会であったばかりか、参加者一人ひとりにとっては自分が必ずしも少数の例外であるとは限らないことを実感させる機会でもあった。群衆のなかには、政治家もアクティヴィストも、学者もアーティストも、スケーターもDJも、ベビーカーを押す若い夫婦も老夫婦もいた。群衆を形成しつつ、群衆を実感することこそ、原発に頼らない「エレガントな社会」(ウォルト・パターソン)への第一歩になるに違いない。

2011/04/10(日)(福住廉)

没後150年 歌川国芳 展

会期:2011/04/12~2011/06/05

大阪市立美術館[大阪府]

没後150年を記念し、420点が揃う大展覧会ということで、さすがに見応えがあった。過去の国芳展ではさほど大きく扱われてこなかった美人画も十分な点数があったし、初公開作品、版下、同じ版を流用した作品など珍しいものも沢山見られた。また作品のコンディションが良好なのも満足度を高めた。しかし、残念な点がひとつある。点数が多いため、一度にすべてを展示できず、前半と後半でほとんどの作品が入れ替えられるのだ。熱心なファンなら二度通うのも構わないだろうが、一般的にはどうだろう。二度行けば大人で計2,600円という、美術展としては高額な出費になってしまう。今後大規模な展示替えを行なう展覧会の主催者は、チケットの半券を提示すれば2度目は半額になるとか、あらかじめ2枚綴りの割引チケットを発売するなどのサービスを是非検討してほしい。

2011/04/11(月)(小吹隆文)

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小谷真輔「無重力サーキット」

会期:2011/04/12~2011/05/07

MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w[京都府]

自身の内面に宿る妄想的世界を描いてきた小谷だが、元々は映像作品でキャリアをスタートさせたのだという。ということは、映像とインスタレーションと絵画をミックスした本展の構成は、彼にとってバック・トゥ・ルーツ的な意味合いがあるのかもしれない。映像は、カラフルな影絵のような作品と、飼い猫を撮った2点。その周囲に映像の世界から抜け出してきたようなインスタレーションが施され、壁面には絵画が展示されている。室内の照明は落とされており、絵画は備え付けのペンライトを使って見ることになる。また、ペンライトでインスタレーションを照らすと映像作品と相似のシチュエーションを再現することもできる。ある意味、本展は、彼の絵画世界を3次元に拡張したものと言える。身体ごと作家の脳内にダイブしたような気分になれる、ユニークな個展だった。

2011/04/12(火)(小吹隆文)

山田郁予 展「絶対、一生、金輪際」

会期:2011/03/30~2011/04/30

Mizuma Action[東京都]

「こっち見んな」というフレーズが記憶に新しい、山田郁予の新作展。高橋コレクションでの個展「いいわけ」(2009)と同様、トレーシングペーパーを張り合わせた巨大な画面にパステルなどで少女を描いた平面作品を展示した。触れた瞬間に一気に崩壊するような、脆くも儚い感性が大きな特徴であることに変わりはない。ただ、今回の目玉は山田自身が出演した映像作品。いわゆる「自作自演」の短編映像をあわせて1時間にも及ぶ作品に編集した。ラジオ番組のDJやアイドルのイメージビデオなどの設定を借りて演出された映像に一貫していたのは、山田自身がみずからの美しさを大々的に画面に露出させたこと。ともすれば大きな反感を買いかねないことは重々承知しているのだろうが、伝家の宝刀を抜いた心意気は潔い。自己隠蔽と自己露出の矛盾を突き詰めるコンセプトも明快だ。しかしその反面、細部の綻びが気にならないわけではなかった。映像作品の出来不出来に極端なバラつきがあるばかりか、全体の尺も長すぎで、音声もやたら聞き取りにくい。壁一面に張り出された箴言のような言葉の数々が卓越した言語感覚を実証していただけに、映像の稚拙さが際立っていたのかもしれない。あるいは、このように他者をあえて遠ざけることによって、今回の自己露出に見合う程度に「こっち見んな」というメッセージを強調しようとしたとも考えられる。だがしかし、みずからのヴィジュアル・イメージを見せることを決断した以上、いまさら孤絶感を担保することは、文字どおり中途半端な「いいわけ」という印象を与えかねない。東村アキ子のマンガ『主に泣いてます』が鋭く描き出しているように、美人の悲喜劇は固く閉ざされた殻を打ち破り、さまざまな人間関係に翻弄されるようになってはじめて語られるものだからだ。

2011/04/12(火)(福住廉)

今村拓馬 写真展「Kids -existence- 2006~2011」

会期:2011/04/12~2011/04/21

コニカミノルタプラザギャラリーC[東京都]

スクエアサイズによって写し出された子どもたちの写真。それぞれの子ども部屋で撮影されているからだろうか、その表情はいたって自然だ。いや、より正確にいえば、文字どおり、無表情である。カメラを警戒して心を閉ざしているわけでもなく、逆にカメラマンとの親密な関係性を連想させるのでもなく、その表情からはいかなる感情も読み取ることができない。ある意味で恐ろしい写真といえるが、しかしその一方で、胸に手を当ててみれば、このような「無」の瞬間は誰もが幼年期に経験したことがあることに気がつく。どれほど公園で爆発的に遊んだとしても、自室に戻ればこのような顔で静かに佇んだものだし、公園でもこのような表情を見せる瞬間がなかったわけではない。子どもの快活な表情や悲哀をとらえた写真は数多い。けれども、このような「無」を子どもの本質として写し出した写真は珍しいのではないか。

2011/04/12(火)(福住廉)

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