artscapeレビュー
2017年01月15日号のレビュー/プレビュー
鷹野隆大「距離と時間」
会期:2016/11/26~2017/01/09
NADiff Gallery[東京都]
この欄でも何度か紹介したことがあるのだが、1970~80年代にかけて、若い世代の写真家たちが「コンセプチュアル・フォト」と称される写真をさかんに発表していた。写真機を固定して定点観測を試みたり、位置を少しずらしてフレームの外の空間を取り入れたり、ピントの合う範囲を意図的にコントロールしたりする彼らの作品は、写真を通じて「写真とは何か?」を探求しようとする意欲的な試みだった。
鷹野隆大のNADiff Galleryでの展示は、まさにその「コンセプチュアル・フォト」の再来といえる。毎日、自分の顔や東京タワーを撮り(定点観測的に)、それらを並べる。意図的にピントをずらして、逆光気味の写真を撮る。印画紙を引き裂いて、テーブルの上にコラージュ的に配置する。これらの試みは、手法的にも、発想においても、かつての「コンセプチュアル・フォト」の写真家たちの仕事を思い起こさせるからだ。もともと、鷹野の作品のなかには「写真とは何か?」をつねに問い直そうとする傾向があった。それが加速してくるのは、2010年に同世代の鈴木理策、松江泰治、清水穣、倉石信乃と「写真分離派」の活動を立ち上げてからだろう。この季節はずれの探求の試みは、いまは逆にやや古風にさえ見える。だが、粘り強く続けられていくことで、さらに豊かな成果を生むのではないかという予感がする。
なお、Yumiko Chiba Associates viewing room shinjukuでは、同時期に「光の欠落が地面に届くとき 距離が奪われ距離が生まれる」展(11月26日~12月24日)が開催された。こちらも「コンセプチュアル・フォト」のヴァリエーションであり、地面に落ちる「影」に狙いを定めて、「距離と時間」の問題を別な角度から考察しようとしている。
2016/12/04(日)(飯沢耕太郎)
7つの海と手しごと〈第7の海〉北太平洋と北西海岸先住民のトーテム
会期:2016/11/19~2017/12/18
世田谷文化生活情報センター:生活工房[東京都]
世界の海沿いの地域に暮らす人々の生活を紹介するシリーズ。2011年5月から始まった7回の展覧会を見てきて印象に残ったのは、海との関わりで生きてきた人々の生活と、それらの人々に伝わる手しごと、文様、デザインが示す民族のアイデンティティだ。最終回となる本展では、北米大陸北西部、カナダ・ブリティッシュコロンビア州を中心にアメリカ合衆国アラスカ州、ワシントン州の太平洋岸沿いに住む先住民たちの暮らしが取り上げられている。北西海岸先住民は半定住社会で、春から秋はキャンプ地で漁労を中心に食糧を蓄え、冬には村に集まり過ごしてきた。豊富にとれるサケ類を乾燥・燻製して貯蔵して冬期の食糧とするほか、ユーラコン(蝋燭魚と呼ばれるほど油分が多いという)から採れる油は交易品ともなった。北西海岸先住民は、動物と人間を同一視し、特定の動植物や自然現象を自分たちの祖先と特別な関わりがあるものとして信じてきた。これを「トーテム」といい、ワタリガラス、ワシ、オオカミ、シャチ、クマなどの意匠が個人や集団のアイデンティティ、一族の由来を伝えるものとして家や柱、生活道具や衣類、儀礼用具などに描かれたり彫刻されたりしてきた。展示では、北海道立北方民族博物館が所蔵する資料を中心に、北米大陸北西海岸地域の地理や歴史、トーテムの意匠を施した道具類や版画、先住民たちに伝わる神話、生活や風習を記録した映像などによって、北西海岸先住民の過去と現在の生活文化が立体的に紹介されていた。展示品のなかでも1980年代から90年代に制作されたシルクスクリーン版画は、先住民の神話を語るものとしても意匠としても印象的であるばかりではなく、白人の到来以来先住民たちが被った苦難とアイデンティティ再生の歴史を物語るものでもあって、とても興味深い
「トーテム」が施されたものとして日本でもよく知られているのはトーテムポールだろう。本展では19世紀に撮影された写真や、現代のミニチュアのトーテムポールが紹介されている。恥ずかしながら、筆者はこれまでトーテムポールを北米先住民に共通する彫刻柱と誤解していた。とはいえ、そのような誤解はゆえなきものではないらしい。誤ったイメージの源泉は1953年のディズニー映画「ピーターパン」。この映画の中にはティーピーと呼ばれる円錐状のテントとトーテムポールの前で羽根飾りを付けた先住民たちが踊るシーンがある。しかしながら、劇中に描かれている先住民は平原地帯で移動生活をしていた人々のイメージであり、本来トーテムポールを建てたのは大きな樹木が茂る地域に定住していた北西海岸先住民の一部の部族のみで、両者の生活圏、暮らし、風俗はまったく異なるのだ 。ところで、かつて日本各地の小学校の校庭にもしばしばトーテムポールが見られた。トーテムポールになにか親しみを覚えるのはそのせいもあるのだろう。いったいなぜ日本の学校に北米先住民の彫刻柱を模したものが建てられたのか。小学校で図工教育に携わった大先輩の話によれば、昭和40年代終わりから50年代にかけて街の電柱が木製からコンクリート製へと切り替えられていった際に、不要になった木製電柱をもらい受けて図工の共同制作としてつくられたのだという。誰が電柱でトーテムポールをつくることを最初に思いついたのかは分からないが(ここにもディズニー映画は影響していただろうか)、お金がかからず共同制作に適したものとして、教員の研究会を通じて各地に広まっていったのだろうということだ。[新川徳彦]
関連レビュー
カリブ海とクナ族のモラ|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー
2016/12/04(日)(SYNK)
踊りの火シリーズ第2弾 目黑大路振付作品「かけら」
会期:2016/12/03~2016/12/04
ArtTheater dB Kobe[兵庫県]
「戦後71年の日本の変遷と推移を、政治・経済・歴史的に検証するのではなく、戦後生まれの女性たちの人生・思想・身体を通じて映し出す」(チラシ掲載のステートメントより)という、ドキュメンタリー性の強いダンス公演。出演者は、70代・50代・30代・10代の世代の異なる4名の女性である。彼女たちはプロのダンサーではないが、アマチュア劇団の経験者や目黑のワークショップの参加者、学校のダンス部の経験者など、それぞれのかたちで身体表現に関わりを持つ。
冒頭、一番若い10代の女性が、他の3人に腕の動きやステップの踏み方を教える和やかなシーンから始まる。アジアの伝統的な舞踊のようだが、音楽はかからず、説明もないため、どこの国・地域のどんなダンスなのか詳しいことはわからない。その後は基本的に、それぞれがソロでダンス、語り、歌などの身体表現を行なうシーンが点描的に連なっていく。
本作で際立つのは、70代・10代の2人に比べ、中間の世代である50代・30代の2人から感じられる苦痛や抑圧の表現だ。30代の女性は、激しいドラムの響きの中、片腕を暴力的に振り回し、虚空に何かを投げつけるような/何かを必死で振りほどこうとしているような動作を息が切れるまで執拗に反復する。50代の女性は、自身の長い髪で目隠しをし、手探りで歩きながら切れ切れのアリアを歌い、観客に向けて手を差し伸べた極点で、サイレンのような高音の叫びを発する。
一方、70代の女性は、カセットデッキにテープを入れ替えながら、その時々に聴きなじんだ音楽とともに自身の半生について語りかける。圧巻なのが、80年代に参加した反原発運動で逮捕され、全裸で取り調べを受けた屈辱的な経験を語った後、「足腰や目は弱ったが、ここ(お腹)だけは私の人生が溜まっていく」と言って、たるんだお腹を見せ、観客と対峙するシーンの緊張感だ。お腹のたるみとは裏腹に、むしろその姿は誇りと不屈の精神に満ちている。また、10代の女子高生は、終盤で再び、冒頭の踊りを繰り返すのだが、今度はチマチョゴリ姿に着替えており、国籍や民族的出自という別の困難を指し示す。だが踊る彼女から感じられるのは、そうした重荷やしがらみを感じさせない、飄々とした軽やかさだ。
こうした対照性が、個人の性質なのか、世代に由来するものなのか、断定することは難しい。しかし、コンテンポラリー・ダンスの成果のひとつが、偽のニュートラルさに漂白された身体の称揚ではなく、多様な差異の肯定にあるならば、本作は、「個」を「世代」「集団」「共同体」へと均していこうとする力や欲望に抗いつつ、「個」を起点として戦後史や社会状況を(断片的にではあれ)浮かび上がらせようとする試みとして評価できるだろう。
2016/12/04(日)(高嶋慈)
三代目、りちゃあど
会期:2016/11/26~2016/12/04
東京芸術劇場 シアターウエスト[東京都]
野田秀樹作、オン・ケンセン演出「三代目、りちゃあど」@芸術劇場。出演者や関係者の国籍、手法、題材としては、ガムランと影絵、歌舞伎、狂言、宝塚の要素、英語、日本語、インドネシア語、ジェンダーが混淆し、まさにポストモダンの多様性を具現化する。またシェイクスピアの原作を家元争いになぞらえ、メタフィクション的に書き換えながら、スパークさせた。あまりの情報量の多さゆえに、頭をフル回転してみるべき作品である。
2016/12/04(日)(五十嵐太郎)
フェスティバル/トーキョー16 チェルフィッチュ「あなたが彼女にしてあげられることは何もない」
会期:2016/12/02~2016/12/05
南池袋公園内 Racines FARM to PARK[東京都]
ある意味では通常の観客と俳優の位置が逆転していた。すなわち、屋外サイドから、カフェの店内に座る女優をガラス越しに見る演劇である(声や音はヘッドホンを通じて聴く)。何気ない都市の日常風景のなか、卓上のコップやコーヒーを使いながら(ゆえに、前上から撮影した映像も屋外のモニターに流す)、独特の天地/世界創造を突然語り出すSF(?)のような、もしくは独り言の妄想のような、怒涛の30分! だった。それにしても、派手なことをせずとも、普通のモノを手にしながら、わずかな語りで、あっという間に引き込んでしまう岡田利規の演出はさすがである。
2016/12/04(日)(五十嵐太郎)