2018年04月15日号
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artscapeレビュー

雑貨展

2016年05月15日号

会期:2016/02/26~2016/06/05

21_21 DESIGN SIGHT[東京都]

「雑貨」とはなんだろう。展覧会序文は「その定義は曖昧にして捉えどころがありません」という文章で始まる。しかし、曖昧であってもなにかを定義しなければ展覧会にはならないだろう。「今あえてゆるやかに定義するならば、『雑貨』とは『私たちの日常の生活空間に寄り添い、ささやかな彩りを与えてくれるデザイン』といえるでしょう」と序文はつづく。ゆるやかすぎて、わかるようなわからないような定義だ。実際の展示物を見てみるとどうか。まさしく雑貨である。ガラスのコップだったり、金属のカトラリーだったり、籐の籠だったり、プラスチックの腰掛けだったり、一つひとつのものにはそれぞれの名称があり、ジャンルがある。しかし、それらの集合体は雑貨としか言いようがない。これらの中から食事に必要な道具だけを集めればそれは食器だし、薬罐や鍋、ザルを集めれば金物だ。ペンやノート、消しゴムを集めれば文房具というジャンルだ。しかしそれらがシャッフルされると「雑貨」としか呼びようのない不思議な集合体になる。
一つひとつのものを取り出すと、それは雑貨ではない。コップはコップ、スプーンはスプーンである。雑貨が雑貨であるのは用途を持った多様なジャンルの品が集まっているからだ。そうした集合が見られる場は主にそれらを売る店──すなわち雑貨店である。それでは雑貨店とはどのような店なのか。山方石之助編『秋田案内』(明治35年)は、雑貨店(小間物商)の扱うものとして「紙、煙草、文房具、袋物、金銀細工、洋傘、革包類、毛布、膝掛、石鹸、歯磨、香水、其他の男女装飾品、茶、時計、家什、帽子、靴、洋酒類、絵草紙、おもちや類」と多種多様な商品を挙げている★1。しかし、ただなんでもあればいいというものではない。清水正巳『洋品雜貨店繁昌策』(大正11年)は雑貨店を「ハイカラなよろづやだ」とする★2。雑貨店にはただ多様な品があるだけではなく、テーマがあるのだ。そこが「よろづや」との違いだ。明治大正期の雑貨店のテーマは「ハイカラ」であり、そこはモノを売るだけではなく、人々にライフスタイルを売る場でもあった。
展示に戻ろう。銀座の店から集めた石鹸や化粧水瓶など洋風なものもあるが、ここに集められた「雑貨」は必ずしも「ハイカラ」ではない。アルマイトの薬罐も、竹で編まれたザルもハイカラとはいえない。ハイカラは明治の終わりから昭和の初めにかけての「雑貨店」のテーマであり、この展覧会には異なるテーマで「雑貨」が集められている。ではそのテーマがなにかといえば、解説には謳われていないが、おそらく「アノニマス・デザイン」だ。本展のディレクター深澤直人は日本民藝館の5代目館長。アノニマスな工芸の美を見出した柳宗悦と、アノニマスな工業製品の美を讃えた柳宗理の系譜に深澤が連なると考えれば、ここに集められた「雑貨」を貫くテーマに「用の美」と「アノニマスなデザイン」があると考えてもおかしくない。ここに集められたモノには「用」がある。ここに集められたモノの大部分は「用」に従ってデザインされている。しかし誰がデザインしたものなのかはわからない。わかったとしてもそれは問題ではない。それぞれのモノには「用」があるけれども、もともとのつくり手の意図とは異なる文脈で評価され、使われることもある。民藝もアノニマス・デザインも、そして雑貨も、重要なのは見出すという行為だ。「雑貨店」はテーマを持って「見出し」「集め」たものを通じてライフスタイルを「売る」店。「雑貨展」は「見出し」「集め」たものを通じて、人々にライフスタイルを「見せる」展覧会。モノを媒介として提案されるライフスタイルへの共感や、モノをトリガーとして呼び起こされる私たちの記憶が、雑貨の魅力を形づくっている。[新川徳彦]

★1── 山方石之助編『秋田案内』(明治35年、21~22ページ)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763197/34
★2── 清水正巳『洋品雜貨店繁昌策』(大正11年、4ページ) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971666/14

2016/04/28(金)(SYNK)

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