2018年01月15日号
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artscapeレビュー

生誕140年 吉田博展

2016年05月15日号

会期:2016/04/09~2016/05/22

千葉市美術館[千葉県]

吉田博(1876~1950)の名前は新版画の作品で知ったので、長らく彼を版画家と認識していた。それゆえ、最近になって東京国立博物館で吉田博の油画《精華》(1909年)を見てとても驚いた覚えがある。じっさいには、吉田博は水彩画からスタートして油彩をマスターし、版画を手がけたのは40代の終わりになってからのことである。版画を始めてからも並行して水彩、油彩の絵を描いている。後半生の約20年間に制作された250種ほどもの版画作品が多くの美術館に収蔵されていることが、版画家・吉田博の印象を強くしているのだろう。
版画家としての吉田博の知名度は川瀬巴水(1883~1957)に及ばないかも知れないが、巴水が「スティーブ・ジョブスに愛された版画家」ならば、博は「ダイアナ妃に愛された版画家」だ。故・ダイアナ妃はケンジントン宮殿の執務室に博の版画を飾っていた。第二次世界大戦終戦直後、マッカーサー総司令官夫人、リッジウェイ司令官夫人が博の家を訪ねたという話もある。心理学者フロイトの書斎にも博の版画が掛かっていたという。福富太郎コレクションの最初の一枚は、博の水彩画《朝霧》なのだそうだ。版画に限らず、吉田博の作品は海外での評価が高く、また知名度もある。
博を語るキャッチフレーズは他にもある。明治27年から32年まで、不同舎・小山正太郎に入門して鉛筆画と水彩画を修行したころの博は「絵の鬼」とあだ名されていた。博はまた「黒田清輝を殴った男」とも呼ばれた。明治40年3月、東京府勧業博覧会の審査を巡る騒動で、太平洋画会のリーダーであった博は白馬会系に偏った審査の不公平を訴え、褒状返還運動の首謀者となる(このとき川村清雄が西洋画審査員を辞している)。以前からの白馬会系に対する博の反発もあって、このときのエピソードが後に「黒田清輝を殴った」と噂されたのだ。ロビーで上映されている展覧会紹介映像のタイトルは「痛快 吉田博伝」。講談師によるナレーションで初渡米における冒険と成功が語られるほか、黒田とのエピソードにわざわざふたりの作品を並べて見せるところ、なかなかの仕掛けである。
博はまた「山と水の画家」である。30代前半から50代前半までの20年間、ほぼ毎夏、1ヶ月から3ヶ月にわたって山にこもり、絵を描いた。「日本アルプスは全部登った」と豪語するその登山は本格的で、昭和6年に出版された博の著書『高山の美を語る』は、山の案内書となるほどの内容であるという。博の水彩、油彩、版画には、その地を踏んだ者にしか見ることができないであろう山の美が描かれている。飛沫をあげながら流れる渓流の表現もすばらしい。
吉田博が版画を始めたのは大正9年のこと。渡邊版画店・渡邊庄三郎を版元に8点の作品を手がけた後、大正14年、49歳の時に自ら彫師と摺師を抱えて私家版版画の制作を始めた。モチーフは水彩画同様に国内外の山や風景が中心。「昭和の広重」と呼ばれた巴水とは異なり、洋画の表現、水彩画のタッチを版画に写すことに腐心した様子がうかがわれる。インドに取材した《フワテプールシクリ》(昭和6年)のアラベスク模様の格子窓に滲む光の表現は木版画のものと思えない美しさ。47度摺りというこの作品は、どのように摺ったのか見当もつかない、驚くべき作品だ。渡邊庄三郎の版画は欧米をマーケットとして、外国人のエキゾチシズムを刺激する作品づくりが見て取れるが、吉田博の私家版はそのような趣向をあまり感じさせない。とはいえ、彼が売れる作品を意識していたことは間違いないので、ならば何が海外の人々──とくに米国人に高く評価されたのか、興味は尽きない。
本展にはこれら代表作のほかに従軍画家としての作品、スケッチブック類、博が撮影した写真などの資料が出品されている。今年2016年は吉田博の生誕140年。本展は1996年に福岡市美術館他で開催された展覧会以来、20年ぶり、2度目の回顧展で、出品点数は前回展の2倍以上だという。郡山市美術館(2016/6/4~7/24)、久留米市美術館(2017/2/4~3/20)、上田市立美術館(2017/4/29~6/18)、東郷青児記念損保ジャパン日本興和美術館(2017/7/8~8/27)に巡回する。[新川徳彦]


展示風景 左:自宅応接間を飾った《バラ》大正9年 右:従軍期の写生帖、昭和13~15年)


2016/04/08(金)(SYNK)

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