artscapeレビュー
2012年01月15日号のレビュー/プレビュー
榎忠 美術館を野生化する
会期:2011/10/12~2011/11/27
兵庫県立美術館[兵庫県]
「エノチュー」こと、榎忠の本格的な回顧展。銃器や薬莢をモチーフとしたインスタレーションをはじめ、全身の体毛を半刈りにしてハンガリーに行くパフォーマンスの記録写真および映像、研磨した金属部品をひとつずつ積み上げ未来都市のような造形をつくり出すインスタレーションなど、榎の代表的な作品がひととおり展示された。ただ、一つひとつの作品はそれなりに見応えがあったにせよ、全体的には中庸かつ堅実な構成で、若干の物足りなさを覚えたのも事実だ。それは「美術館を野生化する」という勇ましいフレーズが、榎の作品の「野生」を過剰に煽る一方で、じっさいは「榎忠の野生を美術館化する」ともいうべき展観だったことに由来しているのかもしれない。監獄のような美術館が榎の野生を飼い慣らしてしまったことは想像に難くない。けれどもその一方で、じつは榎の作品の方に、美術館と親和性の高い要素が内蔵されていたと考えられなくもない。というのも、本展で展示された鉄彫刻のうち、とりわけ近作の一部には、明らかにもの派からポストもの派にいたる立体表現への批判的な言及が垣間見えたからだ。具体的に言えば、先端を溶かした円筒状の黒い鉄を床に転がした《SALAMANDER》は、木を炭化するほど燃焼させる遠藤利克を、立方体の鋼鉄を重機で溶かし潰した《BROOM》は、鉄の塊をハンマーで打ち続ける多和圭三を、それぞれ直接的に連想させた。双方の作品にあるのは、既存の美術史を機械の力で一撃するかのような批判性だが、その代わり美術史に脇目もふらずに躍動する野生は失われていたといってよい。この立ち位置の微妙な変化が何を意味しているのか、いまはまだわからないが、今後発表されるであろう新作で、それが判明することを期待したい。
2011/11/25(金)(福住廉)
梅田哲也 展 小さなものが大きくみえる
会期:2011/11/12~2011/12/04
新・福寿荘[大阪府]
梅田哲也といえば、日用品や廃品を再構成することで、かすかな音やひそやかな美を見せる作品で知られるが、今回の展覧会でそれが必ずしも小さな感動に限られているわけではないことを、新たに知った。会場は、大阪の下町と山の手のちょうど境目の斜面に立つ古いアパート。昔ながらの古い街並みを侵食するジェントリフィケーションを目の当たりにさせられる、文字どおりの瀬戸際だ。中へ入ると、天井の随所から細い紐がぶら下がっている。引くとわずかに手ごたえがあるが、特別な音が出るわけではないし、何かが動き出すわけでもない。訝しく思いながら押入れに設えられた小さな階段を上がると天井裏に抜けるが、そこで「なるほど!」と合点がいった。暗闇の底に広がっていたのは、数々の照明器具。誰かが下で紐を引くと、さまざまな色の灯りが点滅するという仕掛けだ。夜の海できらめく夜光虫のような光景がなんとも美しい。天井裏の一角からスロープを降りると、アパートの外部へ出た。側壁をぶち抜いてスロープを天井裏まで延ばしてしまったわけだ。いくら古いとはいえ、アパートの空間全体を大胆に再構成する発想に驚かされた。小さな光や音といえども、その背景を思い切って改造することで、大きな感動を呼ぶことがある。その原則は、同時期に神戸アートビレッジセンターで催された個展で発表された、会場の壁を持ち上げる作品や大量の羽毛を扇風機で巻き上げる作品などにも一貫していた。地域におもねることなく、自らの表現を最大限に開示する身ぶりが潔い。一時的とはいえ、この大胆不敵な展覧会が催されたことこそ、地域への貢献というべきだろう。
2011/11/25(金)(福住廉)
世界制作の方法
会期:2011/10/04~2011/12/11
国立国際美術館[大阪府]
おもに70年代生まれの日本人アーティスト9組を集めた展覧会。アートが個人的な表現にもとづいている以上、それぞれにとっての「世界制作の方法」が開陳されたことは言うまでもないが、なかでももっとも強い印象を残したのが、クワクボリョウタ。暗がりのなかを鉄道模型が走るインスタレーションを発表した。列車の先頭に小さなLEDライトを組み込んでいるため、列車の進行とともに線路の周囲に配置された日用品の影が展示会場の壁を次々と走ってゆく。洗濯ばさみや色鉛筆、ザル、ゴミ箱などの小さな物体の影が、壁面に大きく映し出されて、やがて消えていく光景は圧倒的に美しい。空間全体に影が移ろっていくから、まるでその電車の車窓から影の世界を見上げているかのように錯覚するほどだ。しかも、線路と街並みのミニチュアは入念に計算されて設置されているのだろう、影の風景がドラマティックに展開するところが、なんとも心憎い。100均で購入できるような日用品を使うアーティストは数多いが、それらをこれほどまでに美しく活用するアーティストは数少ない。しかし、このように身の回りにある素材で現実を空想に反転させる「世界制作の方法」は、じつは誰もが幼少時に試みたはずであり、おそらくは古来から人間が繰り返してきた遊戯=想像力=芸術だったようにも思う。クワクボリョウタの作品が映し出していた影の裏には、そうした原点から離れてしまった「現代アート」ないしは「メディアアート」が隠れているかのようだった。
2011/11/25(金)(福住廉)
クリウィムバアニー『がムだムどムどム』
会期:2011/11/25~2011/11/27
シアタートラム[東京都]
イデビアン・クルーでもダンサーとして活躍している菅尾なぎさの振付・演出の本作。「遊覧型ぱふぉーまんす」と銘打っているとおり、会場となるシアタートラムは舞台と客席の枠が取り外され、周囲を観客が歩き回れる庭のような空間が設えられていた。その光景にまず驚かされた。白い下着のような衣装で踊るダンサーたち。舞台と客席の境界が消えると、彼女たちが近過ぎて戸惑うといったことが起きる。また普通だったら同じ方向を見ている観客が折々に視線を交差させてしまうので、自分の視線を他の観客に悟られてしまうこともあり、一層目のやり場に困る。「どきまぎしている場合か!」と、頑張って目をダンサーにやると、肌の白さに陶酔しそうになる。めまいのなかで見る者と見られる者との関係が浮きぼりにされる。夢遊病者のように空間を徘徊する彼女たちは、生々しい人形のようで、けっして観客と視線を交わすことはない。近いのに徹底的に遠ざけられている気分になる。突発的に音楽が鳴ると、踊りがあちこちで始まるものの不意に収束してしまう。明確なピークが訪れない。ゆえにダンサーと観客との一体感は、その予感だけ与えられたまま先送りされる。リハーサルのような本番はとめどもなく、そのうちに〈ダンサーという生物〉の生態を観察している気になってくる。妖精のようなダンサーは当然人形ではない。生命があるが故に、いつかこの美しさは(加齢によって)別のなにかへと変容を余儀なくされるはず。妖精としてのダンサーはつねに刹那的だ。その刹那が痛い。ダンサーの体は明らかに長年の訓育(察するに多くは幼少期からバレエのレッスンを受けている)の賜物だ。しかし、その輝きを十分に活かすことなく(きっとどんなに活躍をしても、ダンサー本人はそう感じることだろう)、その時期をやり過ごしてしまう。ピークなしに観客を無視しながら進む時間のなかに、彼女たちのいらだちをぼくは感じた。次第に白い肌には汗がにじむ。彼女たちのいらだちにひりひりした。一番際立っていたのは、そのひりひりした感触だった。
2011/11/27(日)(木村覚)
天才ハイスクール!!!! カミングアウト!!!!!!!!
会期:2011/11/25~2011/11/27
素人の乱12号店、キタコレビルGARTERギャラリー、なんとかBAR[東京都]
Chim↑Pomの卯城竜太が講師を務める美学校の学生たちによるグループ展。高円寺の「素人の乱」のいくつかの店舗を会場にして、8人がそれぞれ作品を展示した。いずれも個人的な動機と社会的な文脈を接続させた作品で、見応えがあった。とくにおもしろかったのは、臼田知菜美。映像を見ると、彼女が見ず知らずの喫煙者たちに一本のタバコを貰い続ける様子が記録されているが、そうして集めたタバコを会場で配布して自由に喫煙できるようにされていた。トイレに入ると、こんどはカフェやパチンコでトイレを借りた臼田がトイレットペーパーを拝借する映像が流され、それが目の前のトイレで使用されているというわけだ。トイレットペーパーの先端を丁寧に折り畳んでいるところがなんとも律儀だが、双方の作品に通じているテーマは、自分の愛嬌を差し出す代わりに、展覧会で必要とされる物資を貰い受けるというエコノミーである。これが、相手に金銭を振り込ませるのではなく、こちらから相手に金銭を振り込むことを説得するChim↑Pomの《オレオレ》と通底していることは明らかだが、本展には臼田以外にもChim↑Pomからの強い影響がうかがえる作家が多かった。それは美術であろうとなかろうと、教育というシステムが決して避けることができない関門であることにちがいはない。だからこそ、彼らの今後にとって重要なのは、これまで学んできたことをみずから解きほぐしていくこと、すなわちunlearningである。その先に、アーティストとして自立する自らの姿が見えるはずだ。
2011/11/27(日)(福住廉)