artscapeレビュー
2012年01月15日号のレビュー/プレビュー
生誕100年 ジャクソン・ポロック展
会期:2011/11/11~2012/01/22
世界中の美術館がコレクションに加えられるピカソとは違い、ポロックはそれほど作品が多くないから、本当によくこれだけの作品を日本で一同に集めたものだと思う。生誕100年の回顧展を開催したのも、世界で日本だけのようだ。初期のものから含めて、ポロックの作品集でおなじみの絵画と幾つも出会うことができる。今回、彼が絵画を制作していた小屋を、1/1スケールで再現していることが興味深い。行為の痕跡としての作品だけに、スケール感を確認できるからだ。言うまでもなく、絵画を床に広げて制作したこともあり、床には大量の絵の具が飛散した状態になっている。
2011/12/05(月)(五十嵐太郎)
五十嵐太郎研究室『山田幸司作品集 ダイハード・ポストモダンとしての建築』
発行日:2011/11/20
2009年に亡くなった建築系ラジオの創設メンバー、山田幸司の作品集+追悼文集である。名古屋工業大学の北川啓介研で集めた資料を引き継ぎ、東北大学五十嵐研(担当は平野晴香)の編集によって、2年かけてようやく完成した。彼の卒計、SDレビュー入選作、代表作の《笹田学園》を含む実作、幻の自邸計画などのアンビルドを収録し、強度あるポストモダンを味わうことができる。なお、装幀もヤマダ・グリーンを基調としたブックデザインとした。
2011/12/05(月)(五十嵐太郎)
春木麻衣子「view for a moment」
会期:2011/11/18~2011/12/24
TARO NASU[東京都]
春木麻衣子のように、しっかりと自分の進むべき方向を見出しつつある写真作家の作品を見るのは愉しい。2010年のTARO NASUでの個展「possibility in portraiture」のあたりから、彼女の作品の中には人間(通行人)が登場し始めた。風景に人の要素が組み込まれることで、作品がより観客に開かれた印象を与えるものになりつつあるのだ。今回展示された新作「view for a moment」でも、明快なコンセプトと鮮やかな作画の手際が、気持ちよく目に飛び込んできた。パリの路上で撮影されたこのシリーズは、2つの場面をひとつの画面におさめたもので、ちょうど中央部分に縦長の黒いスリットが入っている。これはフィルムの2つのコマのつなぎ目であることが、写真を見ているうちにわかってくる。そのスリットを挟んで、2人の人物が写っているのだが、それぞれの体の大部分はスリットに隠れて見えない。つまり、人物がカメラのフレームから外に出ていこうとする瞬間、フレームに入り込んでくる瞬間にシャッターを切っているのだ。タイトルに「51 seconds」とか「112seconnds」とか表記してあるのは、最初のシャッターを切り、次のシャッターを切るまでの秒数をストップウォッチで測ったのだという。フィルムのコマとコマのあいだ、スリットの部分で何が起こっているのか、その「見えない部分」へと観客の視線を導くことで、観客の想像力が大いに喚起される。実に巧みな仕掛けだが、コンセプトが上滑りすることなく、視覚的なエンターテインメントにきちんと結びついているのが、気持ちのよさの理由だろう。写真作家としての総合的なレベルが、一段階アップしたように感じる。
写真:318 seconds, from the series “view for a moment” 2011 type C print
© Maiko Haruki Courtesy of TARO NASU
2011/12/06(火)(飯沢耕太郎)
特別展 フェルメールからのラブレター展 コミュニケーション:17世紀オランダ絵画から読み解く人々のメッセージ
会期:2011/10/27~2011/12/12
宮城県美術館[宮城県]
会場は満員御礼だった。17世紀のオランダ絵画は、全絵画史においても、とくに窓や室内の表現が抜群に面白い。そして窓辺で手紙を読んだり、書いたり、食事を行なう場面を描く構図が共有されている。特にピーテル・デ・ホーホは、重層的に空間を折り畳みつつ、絵と窓の置換可能性も感じさせるものだ。今回、フェルメールの絵画は3点が出品されている。うち2点は窓を描かずに、その存在をほのかに意識させる手法が興味深い。
2011/12/06(火)(五十嵐太郎)
ぬぐ絵画──日本のヌード1880-1945
会期:2011/11/15~2012/01/15
東京国立近代美術館[東京都]
いわゆる「裸体画」の歴史を振り返った展覧会。黒田清輝から萬鉄五郎、熊谷守一、そして安井曽太郎、梅原龍三郎、小出楢重まで、おもに油彩100点が展示された。西洋から輸入した「裸体画」を受容していく過程を時間軸で区切った構成は、いくぶん面白みに欠けるとはいえ、いちおう堅実ではあるし、黒田による《智・感・情》など、見るべき作品も多い。女性のヌードを描いている以上、そこにはエロティシズムの視線が必然的に動員されるが、おもしろいのは黒田によって制度化された「裸体画」の系譜が、後の世代の絵描きによって撹乱され、エロティシズムの視線すら相対化されているように見えるところだ。なかでも、とりわけアナーキーなのが萬鉄五郎。腋毛を見せつける《裸体美人》がよく知られているが、そのほかにも日本髪を結っているのだろうか、巨大な頭部をもつ裸婦像を描くなど、冗談としか思えないヌードをたくさん描いている。「裸体画」という歴史的系譜に沿ってみれば、黒田によって導入された西洋的肉体美の基準からの逸脱として見られるのだろうが、一方で「裸体画」をエロティシズムの呪縛から解放したと考えられなくもない。幻想的な背景や白人女性のモデルによって肉体を過剰に美化するのではなく、私たちの土着的な肉体そのものを凝視すること。萬鉄五郎は肉体をいかなる意味にも還元することなく、あくまでも物体としてとらえる即物的な視線で描いていたのではないだろうか。それが滑稽な印象を与えるとしたら、私たちの肉体が滑稽なのだろう。
2011/12/07(水)(福住廉)