artscapeレビュー

2010年04月15日号のレビュー/プレビュー

神山成美「TOO EAT」

会期:2010/03/15~2010/03/23

MUSEE F[東京都]

先に紹介した瀬戸口大樹と東京ビジュアルアーツの卒業制作の最優秀作品を争ったのが神山成美。点数的に拮抗していたので、賞に漏れたのが残念だったのだが、たまたま表参道のギャラリー、MUSEE Fの会場に空きが出て、展覧会を開催できることになった。こういうラッキーも実力のうちといえそうだ。
神山の作品は、新潮社から毎月刊行されている写真集「月刊」シリーズへのオマージュである。1998年にスタートした「月刊」は、旬の女優やモデルを気鋭の写真家たちが撮り下ろすシリーズで、これまでも藤代冥砂や蜷川実花などがなかなかいい作品を発表してきた。限りなくヌードに近い状況を設定して、見えそうで見えないエロティシズムを打ち出していくところに特徴があるのだが、神山はその撮影・編集のスタイルを完全に自分のものにして、表紙のロゴやインタビューのページ、さらに広告までもそっくりに似せた写真集を手作りしてきたのだ。興味深いのは、そこに写っている女の子たちが、一般的に男性写真家が女性モデルを撮影する時のように、性的な対象として受動的にポーズをとらされているのではないということだ。撮影は神山とモデルとの積極的な共同作業というべきもので、写真家はエロティックな表情をこちらに向けるモデルにほとんど同化しているように見える。どこか似通った雰囲気を漂わせるモデルたちは、神山の分身といえるのかもしれない。
今回の展示では、スペースの都合もあって2人のモデルの作品しか展示できなかった。もう少しヴァリエーションを増やすと、もっと面白い視覚的効果が期待できたのではないだろうか。

2010/03/15(月)(飯沢耕太郎)

森村泰昌「なにものかへのレクイエム─戦場の頂上の芸術」

会期:2010/03/11~2010/05/09

東京都写真美術館2階展示室・3階展示室[東京都]

おそらく今年の写真・映像の展覧会でもっとも話題を呼ぶものになるのではないか。東京都写真美術館の2階、3階の展示室、さらに2階カフェの壁まで全部使った、渾身の森村泰昌劇場である。
森村はこれまで美術史のなかの登場人物、女優やポップスターなどに「成りきる」パフォーマンスを展開してきたのだが、2006年の個展「烈火の季節/なにものかへのレクイエム・その壱」(ShugoArts)での三島由紀夫を皮切りに、20世紀を代表する男たちを変身の対象に選ぶようになった。なぜ20世紀なのか、またなぜ女性ではなく男性なのかということについては、彼なりの理屈づけはあるだろう。だが、それをとりたてて問いただす必要もなさそうだ。以前にも増してやりがいのあるテーマに対して、アーティスト魂が燃え上がったということでいいのではないだろうか。
実際、第一章「烈火の季節」(三島由紀夫、浅沼委員長暗殺)、第二章「荒ぶる神々の黄昏」(レーニン、ヒトラー、ゲバラ、毛沢東など)、第三章「想像の劇場」(ピカソ、デュシャン、ダリ、クライン、手塚治虫など)、第四章「1945・戦場の頂上の旗」(天皇とマッカーサー、タイムズスクエアの戦勝パレード、硫黄島、ガンジーなど)という流れの展示を見ると、その何者かに「成りきる」という行為への凄まじい精神と肉体の傾注ぶりに圧倒され、呆然としてしまう。何かに取り憑かれたようなエネルギーの集中と爆発は、もはや神業の域にまで達しているといってよい。
だが、その怒号と叫びが耳に残るパフォーマンスをシャワーのように浴びて、ぐったりと疲れて帰途についた時、どこか釈然としないものが残る気がした。たしかに、いまこの不透明で閉塞感に沈み込む21世紀にあって、くっきりとした輪郭と、凛とした存在感を保つ20世紀の「男」たちを希求する思いは伝わってくる。しかも彼らは単なるマッチョな権力主義者というだけではなく、硫黄島に兵士たちが白旗を立てる新作の映像作品「海の幸・戦場の頂上の旗」が示すように、むしろ暴力的な世界の中で脆さや弱さを隠そうとしない、名もなき無名の庶民たちの代表でもある。その意図の真っ当さは認めざるをえないのだが、以前の森村の作品にあった、どこに連れていかれるのかわからないようなワクワク感があまり感じられなかったのだ。
パフォーマンスがあまりにも完璧過ぎ、これまた以前の森村の作品の中にあふれていた賑やかなノイズが、やや削ぎ落とされているように感じるためなのかもしれない(むろん細部に遊びは仕組まれているが)。「永遠の芸術万歳」「私は独裁者にはなりたくありません」「人間は悲しいくらいにむなしい」といったメッセージが、ストレートに突き刺ささり、思考の水路がとても狭く閉じてしまう。森村自身『美術手帖』(2010年3月号)に「ようやく『20世紀の日本の私』という、どうにも動かせない自分の原点に触れることができた」と書いているのだが、この「動かせない」というのは諸刃の剣ではないだろうか。よもや「20世紀」や「日本」や「私」の絶対化につながることはないとは思うが、もしかするとそんなふうに思う人も出てくるのではと案じてしまうほどの憑依力の強さなのだ。次の作品で、「あれはあれで」とアカンベーをしてくれるくらいだといいのだが。

2010/03/17(水)(飯沢耕太郎)

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北野謙「溶游する都市」

会期:2010/03/05~2010/03/21

UP FIELD GALLERY[東京都]

北野謙はパリ・フォトなどのイベントにも積極的に参加して、国際的に注目を集めはじめている写真家。代表作はさまざまな地域や職業の人たちの姿を一枚の印画紙に重ね合わせてプリントした「our face」のシリーズだが、実はそれ以前の1989~97年に本作「溶游する都市」を制作していた。今回はそれをまとめた大判写真集『溶游する都市/Flow and Fusion』(MEM INC)の刊行にあわせた個展である。
長時間露光によって、街を行き過ぎる群衆や風に揺らぐ樹木などがブレることで、何とも形容しがたい白昼夢のような光景が出現する。手法的には特に目新しいものではないが、場所の選択と画面構成力が優れているので、見る者を引き込む魅力を備えた作品に仕上がっている。2009年のパリ・フォトでは、オリジナル・プリント付きの特装版を含めてこの写真集が60冊売れたそうだ。202ドル(日本での販売価格は1万8900円)という値段を考えると、いかに彼の写真が玄人受けするいぶし銀のようなテイストを備えているかがわかるだろう。北野のようにオリジナル・プリントと質の高い写真集で勝負する写真家がもっと増えてくるといいと思う。

2010/03/18(木)(飯沢耕太郎)

関口正夫「光/影」

会期:2010/03/08~2010/03/21

ギャラリー蒼穹舎[東京都]

関口正夫は牛腸茂雄と桑沢デザイン研究所で同級だった。1968年に同校研究科写真専攻を卒業後、さまざまな職業を転々としながら路上のスナップ撮影を続け、2008年に62歳でやはり桑沢の同級生の三浦和人との2人展「スナップショットの時間」(三鷹市美術ギャラリー)を開催した。今回の個展の作品は、1980年代から約30年間の写真から選んでいるという。
関口は学生時代からスナップショットに天賦の才能を発揮してきた。目の前にあらわれた光景を、何気なくつかみ取っているだけに見えて、フレーミングは的確であり、魅力的な光と影のパターンをきちんと画面におさめている。スナップの技術は、狙うのではなく呼び込む能力を磨くことにあると思うが、その構えが最初からしっかりできあがっているのだ。ことスナップということだけで見れば、牛腸茂雄よりも才能は上、日本の写真家でいえば木村伊兵衛並みではないだろうか。ところが近作になるにつれて、その画面構成にブレや揺らぎが生じてくる。普通ならばマイナス要因になりそうなのだが、この“スナップの天才”にかかると、それすらも面白いものに見えてくるから不思議だ。若い女の子を撮影した何枚かの写真には、明らかに彼女たちが発するエロスへのストレートな条件反射があらわれていて、ぬけぬけとそういう写真も出してくることに思わず笑いがこぼれてしまった。最近どうも肩が凝る写真ばかりが目につくので、こういう渋い味わいのスナップショットが妙に気になってしまう。

2010/03/18(木)(飯沢耕太郎)

フランク・ブラングィン展

会期:2010/02/23~2010/05/30

国立西洋美術館[東京都]

国立西洋美術館の礎を築いた松方幸次郎が、ヨーロッパで作品を収集する際に助力した画家がブラングィンだ。ブラングィンといっても美術史には出てこない埋もれた画家のひとりだが、絵は抜群にうまいうえ、ポスターや家具デザインまで幅広く手がけていた。むしろその器用さが、モダニズム一辺倒の美術史から排除される要因だったかもしれない。このレベルの画家なら珍しくないからね。このブラングィンといい、黒田清輝を手ほどきしたラファエル・コランといい、日本の西洋美術受容の立役者はあちらの2流画家の独壇場だ。

2010/03/19(金)(村田真)

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