artscapeレビュー

2015年07月15日号のレビュー/プレビュー

金サジ「STORY」

会期:2015/06/16~2015/06/21

アートスペース虹[京都府]

斬られた首から溢れんばかりの赤い花がこぼれ落ち、傷口から新たな生命を生み出すニワトリ。斧を構える半裸の男は、縄やワラ、垂れ下がる白い紙で頭部を覆われ、半人半神のような呪術的な雰囲気をまとって立つ。美しい刺繍の髪飾りとチマチョゴリを身に付けた少女は、クマの頭をしている。不気味な形の枝を持ってたたずむ、中性的な容貌のシャーマン。セミの抜け殻の山から生え出た、一輪のハスの花。黒い背景に浮かび上がる彼らは、生/死、動物/植物、人間/動物、人間/神、男性/女性など、二つのものを媒介する使者のような存在だ。
写真家の金サジは、緻密に構成した神話的世界を、西洋絵画における肖像画や宗教画を思わせる図像として差し出す。フレスコジクレープリントという特殊なプリント技法によるマットな質感が、絵画的な効果をより高めている。一方で、克明に写し取られた布地の陰影や細部のディティールにより、彼女の描く物語世界の登場人物たちは、黒い背景のなかから強い実在感とともに浮かび上がる。これら象徴性と謎を合わせ持ったイメージは、さまざまな連想を誘い、いくつもの神話や民話のなかのイメージと断片的に響き合いながら、汎東洋的とも言うべき混淆的な世界を形づくる。作家によれば、直感や夢で見たイメージ、かつて読んだ物語の記憶などが混ざり合った、自身のための「創世の物語」であるという。
「神話」や「民話」は、ある共同体の形成と密接に関わるものであり、時にナショナリズムを強固に構築する母体ともなってきた。だが金は、自身が身を置く複数の文化の記憶に触れながら、そこに私的な記憶や空想を織り交ぜることで、特定の「国」「民族」の枠組みに囚われることのない、死と生命、再生についての根源的な物語を紡ぐことの可能性を告げている。そこでは、さまざまな境界が混じり合ってイメージの強度を立ち上げ、生と死もまた反転しながら繋がり合っているのだ。

2015/06/20(土)(高嶋慈)

山本浩貴「他者の表象 あるいは 表象の他者」

会期:2015/06/20~2015/07/05

京都芸術センター[京都府]

京都芸術センターのアーティスト・イン・レジデンス・プログラム2015の成果発表展。「移住」をテーマに、約1ヶ月間の京都滞在でのリサーチに基づく作品が発表された。宗教社会学専攻という出自を持つ山本は、ロンドンの大学で学びつつ、国内外でのレジデンスを経験するなど、彼自身が複数の国や文化圏を「移動」しつつ制作してきた。
出品作《移動する人々と街を歩く》は、作家が「様々な国や文化圏の人たちに3つのお願い」をして制作された。(1)作家を京都で自分の好きな場所に案内し、その様子を自由に撮影する、(2)自分が撮りたい人物のポートレートを撮影する、(3)京都市国際交流協会の職員やボランティアの方に自由にインタビューする、というのが依頼内容である。(1)・(3)の記録映像と(2)のポートレート写真が、3つの壁面に1セットずつ展示された。
山本は、カメラとともに撮影の主体性を協力者たちに委ねる。だが画面上には、彼/彼女たちの姿は一切映らない(映されない)。加えて、彼/彼女たちが何者であるかは、(会話内容から部分的に推測されうるものの)明示されない。ポートレートもまた然り。キャプションが一切ないため、国籍、性別、年齢、社会的立場に関する情報はすべて伏せられている。何者かわからない、帰属先を明確にカテゴライズできない「他者」の存在や思考に向き合うことは可能か。作品の要請をまずはこのように解釈できるだろう。
だが本展で気になったのは、展示方法の形式的側面である。計6つのモニターの映像にはヘッドホンが用意されていないため、それぞれの音声が混じり合い、展示室に入ると雑踏のざわめきのなかに足を踏み入れたかのように感じるのだ。それは、複数の異質な声が重なり合い干渉し合う、一種の擬似的な公共空間を展示室の中に呼び入れようとする戦略だろう。しかしその一方で、一つひとつの「声」は非常に聴き取りにくくなってしまう(スピーカーを使わず、モニターから流れる音声であることも一因)。したがって、会話の内容を把握するためには、「日本語字幕」に頼らざるをえない。彼/彼女らから発せられる肉声、とりわけ非-母語での発話行為が含むニュアンス(言葉を選んで言いよどむ時間やアクセントの微妙な差異など)は捨象され、情報として整えられた「字幕」を読む行為に還元されてしまうのだ。結果として、表象によるカテゴライズを介さない「他者」への困難な接近は、滑らかに表面を漂う「日本語字幕」によってバリアーのようにはね返され、モニター越しに隔てる境界線が引かれてしまったのではないか。

2015/06/20(土)(高嶋慈)

フィッシャー・フォン・エルラッハ《カールス教会》/ヨハン・ルカス・フォン・ヒルデブラント《ペーター教会》

[オーストリア、ウィーン]

竣工:1737年/18世紀

ウィーン・バロックは結構好きなので、フィッシャー・フォン・エルラッハの《カールス教会》や、ヒルデブランドらが設計した《ペーター教会》を再訪した。外部はバロック的な構成のみで、それほど装飾過多ではないが、内部の空間が派手である。それにしても、前者はヨーロッパには珍しく、教会なのに高い入場料が必要で、まるで京都や奈良にあるお寺のようだ。

写真:左=《カールス教会》、右=《ペーター教会》

2015/06/20(土)(五十嵐太郎)

オットー・ワグナー《カールスプラッツ駅》

[オーストリア、ウィーン]

竣工:1899年

オットー・ワグナーの《カールスプラッツ駅》へ。向き合う対になった建築であり、片方はカフェ、もう一方は教会の隣に計画していたシティ・ミュージアムのプロジェクトを中心にワグナーの作品群を紹介するパヴィリオンとなっている(昔は、この展示はなかったような気がする)。またワグナーによる《マジョリカハウス》を含む都市建築群は、グラフィカルな装飾と皮膜としての下部のファサードを強調したデザインだ。

2015/06/20(土)(五十嵐太郎)

ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ《セセッシオン館(分離派会館)》

[オーストリア、ウィーン]

竣工:1897年

完成当時は非難され、いまやウィーンのシンボルのひとつになった《セセッシオン館》。昔の写真と比べると、内部と外部ともにかなりの装飾が減り、現在はキュービックなヴォリュームの構成がわかりやすくなっている。地下の資料展示を見ると、クリムトもこの建物の初期スケッチを描いていた。この案は採用されていないが。

2015/06/20(土)(五十嵐太郎)

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