artscapeレビュー
2014年06月15日号のレビュー/プレビュー
市制施行60周年記念 東京・ソウル・台北・長春──官展にみる近代美術
会期:2014/05/14~2014/06/08
府中市美術館[東京都]
戦前日本の支配下にあった朝鮮、台湾、満州の3地域の官展に焦点を当てた興味深い展覧会。日本で文部省主催の官展「文展」が始まったのは1907年だが、その3年後に併合された朝鮮半島では22年からソウルで「朝鮮美展」が、1895年に割譲された台湾では1927年から台北で「台展」(のちに「府展」)が、また、32年に建国された満州国では38年から新京(長春)で「満州国展」が、それぞれ日本政府の主導により戦争末期まで開催された。そのモデルになったのが「帝展」(19年に「文展」から改称)で、公募審査や受賞などの方式は「帝展」に倣い、実質的な審査も日本人が仕切っていたという(出品者も現地の日本人が多かったらしい)。今回は作品がほとんど残ってない満州を除き、朝鮮も台湾も当時の出品作品を探し出して展示している。地域によって風景(おもに建物)や人物(とくに衣装)などにエキゾチックな趣があるものの、視点や描き方は日本の近代洋画・日本画とほとんど変わらない(一方で、日本の帝展出品作に中国の風景を描いた作品やチャイナドレスを着た婦人像が多くなっている)。こうした日本主導の官展が東アジアの美術の近代化を促したことは否定できないが、とくに望んでもいない官展が導入されることで各地域が歩むべき別の美術の選択肢を摘み取ったことも間違いない。もともと日本の洋画も(日本画さえも)西洋絵画の二番煎じなんだから、三番煎じを押しつけられた朝鮮や台湾はいい迷惑だっただろう。反日感情が収まらない現在、よくこれだけの企画を実現できたもんだと関心する。同展は福岡アジア美術館で立ち上がり、韓国や台湾での開催も視野に入れていたが、メドは立ってないという。ちなみにカタログは日本語、ハングル、中国語の3カ国語併記。
2014/05/13(火)(村田真)
富谷昌子「津軽」
会期:2014/05/02~2014/05/25
POST[東京都]
富谷昌子は大阪芸術大学で須田一政に師事していた2000年代初頭から、故郷の青森県津軽地方を撮り始めた。ツァイト・フォト・サロン(東京)で2010年に「みちくさ」、2012年に「キョウハ ヒモ ヨシ」と、2回の個展を開催している。今回のPOSTでの個展は、初の作品集『津軽』(HAKKODA)の刊行にあわせたもので、これまでに展示された作品と新作をあわせて17点が展示されていた。
作品を見て強く感じたのは、富谷が決して派手ではないが着実に自分の作品を熟成させ、とても魅力的な写真の世界を提示できるようになっていることだった。ツァイト・フォト・サロンでの最初の展覧会に出品された作品もかなり多く含まれているのだが、プリントのクォリティひとつとっても、以前とは比較にならないくらいに深みのある、高度なものになってきている。風土性に安易に寄りかかることなく、「津軽という土地にある“独特の静けさ”」にしっかりと向き合った写真群は、はっとするような鮮やかさで目に飛び込んできた。この数年間で、彼女の写真の表現力が格段に上がっていることがよくわかった。
本展と写真集の刊行により、大学時代以来の積み上げにひとつの区切りがついたことは間違いないだろう。「津軽」は富谷にとってまださまざまな可能性を持つテーマだとは思うが、そろそろ次のステージに進んでもいい頃ではないかと思う。これまでの写真の撮り方、見せ方にあまりこだわらずに、むしろ新たな領域に大胆に踏み込んでいってほしいものだ。
2014/05/14(水)(飯沢耕太郎)
横浪修「1000 Children」
会期:2014/04/25~2014/05/30
EMON PHOTO GALLERY[東京都]
広告やファッション写真の世界でいい仕事をしている横浪修だが、2007年に写真集『なんのけない』(新風社)を刊行して以来、独特の角度から現実世界を見つめ直すプライヴェート作品にも力を入れている。今回、EMON PHOTO GALLERYで発表された「1000 Children」は、京都の三十三間堂の千体仏に衝撃を受けて発想されたものだという。
「幼児期の自我が芽生える頃のこども」をモデルとし、同じ白シャツに黒い吊りスカート(ズボン)を着用させ、頭部と肩の間にリンゴ、マンゴー、アケビ、オレンジなどの果物や野菜を挟み込んで、白バック、間接光で撮影する。4年間で実際に1000人のこどもたちを撮影したというから、大変な労作といえるだろう。いろいろな大きさにプリントされ、手際よく壁面に配置された写真群を眺めていると、この種の写真に特徴的な差異性と共通性の戯れに強く引き込まれていくのを感じる。
ただ、壁面にはたしかに1000人のこどもたちの写真が並んでいるのだが、それだけの数があるように見えないのはどうしてだろうか。三十三間堂の千体仏を間近に見る時に感じる、あの禍々しさ、不気味さ、イメージがとめどなく増殖していくような魔術的な雰囲気が、横浪の端正な作品からはきれいに抜け落ちているのだ。むろん彼がめざしたのは、千体仏の単純な再現ではないだろう。だが、どこか方向性を間違えているのではないかという疑いを、どうしても拭い去ることができなかった。
2014/05/14(水)(飯沢耕太郎)
佐藤時啓「光-呼吸──そこにいる、そこにいない」
会期:2014/05/13~2014/07/13
東京都写真美術館[東京都]
東京藝大の彫刻科を出た佐藤が写真に転じたのは80年代後半のこと。以後4半世紀以上にわたり一貫して、写真というものが光と時間の相関関係で成り立っていることを写真で表現してきた。佐藤自身が企画した展覧会名を借りれば「写真で(写真を)語る」ということになるが、しかし本人はそんな「写真のための写真」にとどまるつもりがないことは、展示のプロローグとエピローグに原発をモチーフにした旧作を据えたことからも明らかだ。この原発周辺に広がる光の点は、佐藤自身が手鏡で太陽光をカメラに向かって反射させた光跡なのだが、いま見ればまるで放射能に汚染された痕跡に見えてこないか。このように、佐藤の写真は手法的には手鏡やペンライトを用いて長時間の光跡を定着させるものだが、その場所は初期のニュートラルな藝大構内から、バブル期の東京、イタリアの遺跡、いわきの海、白神山地の森などへと移り変わり、少しずつ物語性を高めてきている。遺跡の前の光跡はまるで心霊写真のようだし、木の根元の光点は森の木霊に見えないだろうか。また手鏡やペンライトだけでなく、手づくりのカメラオブスクラや24穴のピンホールカメラを用いるなど手法も多様化しており、まるでニエプス以来の写真の歴史をひとりでたどり直そうとしているかのようでもある。実際、彼の写真にはホックニー、杉本博司、山中信夫、山崎博ら先達のエッセンスがいっぱい詰まっているのだ。たっぷり見応えのある展覧会。
2014/05/16(金)(村田真)
工藤和美《金沢海みらい図書館》
金沢海みらい図書館[石川県]
金沢へ。昨年はまさかの水曜休館で外観のみしか見ることができなかった、工藤和美が設計した金沢海みらい図書館をようやく再訪した。内部は、無数の小さな丸窓に覆われたキュービックな大空間の吹抜けである。天気もよかったが、大開口なしでも、明るくて気持ちがいい。丸窓は船のイメージもあるだろう。交通量が多い道路に面した敷地は、外と積極的に交流する周辺環境ではなく、内部に豊かな外部的環境をつくる。
2014/05/16(金)(五十嵐太郎)