2019年11月01日号
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artscapeレビュー

2012年04月01日号のレビュー/プレビュー

1.17/3.11 明日への建築展

会期:2012/02/18~2012/03/12

ASJ UMEDA CELL[大阪府]

2011年3月11日に起きた東日本大震災は辛い記憶である。辛い記憶は早く忘れたほうがいいに決まっている。しかし、まだ忘れてはならない。それは自然災害への警鐘をならすためでも、教訓をいかすためでもない。現にいまだ生活の場を失ったまま、苦しんでいる人たちがいるからだ。本展は、今回の津波で失われた街や村を1/500の縮小模型で復元、展示したものである。復元模型の制作は建築学生と街の再生を願う人たちによるボランティアが中心となって行なったという。模型そのものは何の意味も持たないし(まるでコンセプチュアルアートのように)、たいして面白くもない。ましてや復興へ向けた提案を示しているわけでもない。ただ、失われたものを把握し、記録する。そして、被災地に関心を向かせると意味では評価できるかもしれない。[金相美]

2012/03/07(水)(SYNK)

松井冬子 展 世界中の子と友達になれる

会期:2011/12/17~2012/03/18

横浜美術館[神奈川県]

かつてこれほどまでにコレクターが出しゃばった展覧会があっただろうか。コレクターのコレクションをまとめて披露する展覧会ならともかく、新進気鋭の日本画家による美術館での初個展である。通常であれば「個人蔵」と記されることが多いキャプションに、これみよがしに(としか見えない)個人名を露出させた光景は、まったくもって異様だった。絵を見る視線につねに所有者の暗い影がまとわりつくようで、鑑賞するうえで目障りなことこの上ない。記名された名前の大半が男性だったことから、美しい女性の日本画家の作品を「所有」していることを顕示する、きわめて男根主義的で下品な欲望の現われなのかと勘ぐりたくもなる。狂気や幽霊、情念を徹底的に追究しながらも、それらをあくまでも美しく表現するのが松井冬子の真骨頂だったはずだ。美しさを極限まで追究するがゆえに狂気を伴うといってもいい。このたびのコレクターの露出は、そうした完全無敵な美しさを内側から瓦解させかねない、著しい汚点であると言わざるをえない。コレクターの矜持が失われているのか、あるいは権威づけのための率先した戦略なのか、いずれにせよ今後の松井冬子には、そのような翳りを一切寄せつけない完璧な美を期待したい。

2012/03/07(水)(福住廉)

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山口晃 展 望郷

会期:2012/02/11~2012/05/13

メゾンエルメス8階フォーラム[東京都]

震災の影響を受けたアーティストは多いが、それを作品に反映させるアーティストは少ない。それは私たちが震災に衝撃を受けながらも、そのことを普段の生活にあえて表面化させない身ぶりと似ているのかもしれない。だが、アーティストと自称するのであれば、凡人とは異なる才覚や感性を見せてもらいたいと願うのもまた、凡人ならではの中庸な考え方である。
今回の個展で山口晃は、ストレートな表現を卑下して、へんにひねりを効かせがちな現代美術の作法とは対照的に、それをじつに素直に、一切隠すことなく詳らかに見せているが、そこに、彼が類い稀なアーティストである所以を垣間見たような気がした。展示されたのは、真っ黒に塗られた電柱の列と傾いた部屋のインスタレーション、そして東京をおなじみの俯瞰で描いた大きな襖絵である。黒い電柱はあの恐るべき黒い津波を、傾いた部屋は地震によって揺るがされて均衡を失った都市生活を、それぞれ暗喩していたようだし、制作途中のためだろうか、色がない襖絵にも、高層ビルに匹敵するほど巨大な防潮堤が描かれている。空前の大震災を前に、激しく狼狽する山口自身の姿が透けて見えるようだ。
制作途中のため予断は許されないが、さしあたりアイロニーとユーモアが大きく欠落しているところも、今回の大きな特徴である。山口晃といえば、過去と現在と未来が融合した都市風景を香味の効いた皮肉と小さな笑いによって描き出す絵描きとして語られることが多いが、今回の襖絵には、そのような遊び心に満ちた要素が、いまのところ一切見当たらない。ただ淡々と、想像的な建築様式とともに東京の街並みを描いているような印象なのだ。
この劇的な変化は、疲弊した都市をゼロから組み立てなおす意気込みの現われなのだろうか。それとも、これまで山口が描いてきたフィクションとしての夢物語が現実的な到達目標に見えてしまうほど、現実が想像に肉迫してしまった事態への戸惑いなのだろうか。あるいはもっと別の何かなのか。その答えはまだ見つかっていない。

2012/03/08(木)(福住廉)

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笹岡啓子 写真展 Difference 3.11

会期:2012/03/07~2012/03/13

銀座ニコンサロン[東京都]

地震と津波による被害は眼に見えるが、放射能によるそれは眼に見えない。同じ被害でも、じつに対照的な関係にあることを、笹岡啓子の写真は明快に写し出している。ほとんど同じ構図で切り取られた写真には、一方に凄惨な破壊の現場があり、他方にはのどかな山村風景がある。あまりにも落差があるため、しばらく見ていると目眩を覚えるほどだ。この視覚的なギャップは、地震と津波の被害に対しては情動的な支援を惜しまないにもかかわらず、放射能汚染に対しては見て見ぬ振りをしながら沈黙を守る昨今の日本社会における奇妙なねじれと正確に対応している。その意味で、笹岡の作品は被災地の写真でありながら、同時に私たち自身の写真でもあるのだ。

2012/03/08(木)(福住廉)

カレが捕まっちゃった

会期:2011/03/09~2012/03/09

渋谷オーディトリウム[東京都]

2月の前橋映像祭で上映された江畠香希監督のドキュメンタリー映画。昨年の9月11日に新宿で行なわれた「原発やめろデモ!!!!!」における警察の過剰警備と不当逮捕の実態を記録した。詳細を記述することはあえて控えるが、この記録映像には脱原発デモに対する警察の弾圧(としか言いようがない)が克明に映し出されている。したがって、脱原発デモに参加した人にとって、一見の価値がある映像作品であると断言できる。いや、この困難な時代を生きる者たちこそ見るべき映像と言ってもいい。
原発の全廃を願う大多数の人たちにとって、政府がそれをなかなか遂行しない以上、デモという集団的な表現形式に頼らざるをえないことは変わりがない。ただ、それが警察との折衝を不可避としており、かつての労働運動や学生運動がその応酬によって極限化してゆき、やがて疲弊しながら自滅していった歴史的経緯を考えれば、今後の脱原発運動はデモ以外の集団的な表現形式を開発するべきだと思う。脱原発運動の内実が多様であるように、その表現形式もまた多様であっていい。デモの祝祭性は不可欠だが、多大な時間を必要する原発の廃炉を達成するには一時的な祝祭性が必ずしも有効であるとは限らない。であるならば、脱原発運動を記録したこの映画は、そのオルタナティヴな選択肢のひとつになりうるはずだ。というのも、この映画には脱原発を願って行動する人間に通底する心模様が鮮やかに映し出されており、それをある種の「共通感覚」として共有することが期待できるからだ。
いまやプロジェクターと平らな壁があれば、たとえ映画館でなくとも、上映会の開催はどこでも可能である。オルタナティヴ・スペースやカフェ、大学、民家、廃屋、あるいは神社仏閣など、使える場所はまだまだある。「カレが捕まっちゃった」を上映して来場者同士で議論する場を、全国津々浦々、ありとあらゆる街角に広げていくこと。そのような闘い方を、レイヤーのようにデモの上に重ねることで、現在の脱原発運動を今後もたしかに持続させていくための「厚み」と、心の底で脱原発を願っているにもかかわらず、それを表現することに躊躇している大多数の人びとを受け入れることのできる「拡がり」が生まれるのではないだろうか。

2012/03/09(金)(福住廉)

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