artscapeレビュー

2013年06月15日号のレビュー/プレビュー

北浦和也 木彫展

会期:2013/04/23~2013/05/05

ギャラリーモーニング[京都府]

3月末より2週間あまり、モロッコでのアーティスト・イン・レジデンスに参加していた北浦和也。今展には、その滞在中に制作した作品を含む木彫28点のほか、ドローイングも31点展示されていた。動物や人物、身のまわりの道具などをモチーフにした木彫は、組み合わせたイメージや、どことなくトボケたそれらのそれらの表情にも愛嬌があり、見ているとつい口元が緩む。カラフルな着彩といまにも動き出しそうなそれぞれのポーズはリズミカルで軽快な印象なのだが、かといって木そのものの材質感や存在感は薄くはなく、しっかりと感じられるのが魅力的な作品だ。全体的には小さめの作品が多かったのだが、平等院の雲中供養菩薩像から着想を得たという《夢中ぼさつ》、モロッコの海辺で拾った流木や椅子の脚といった廃材類を用いて制作した《Found objects》シリーズなど、作家の豊かな発想力とセンスが散りばめられた空間になっていて愉快だった。


左=会場風景
右=北浦和也《夢中ぼさつ》

2013/05/05(日)(酒井千穂)

赤松玉女 個展

会期:2013/04/23~2013/05/05

ギャラリーすずき[京都府]

まだ幼い愛娘を描いた作品がたくさん展示されていた。運動会、雪の日の外出、食事や遊びの時間など、描かれている場面はなにげない日常の情景が多い。どれもさらりと描かれている感じだが、線と混じり合う絵の具の滲み、淡い色彩がまばゆい光のように美しく、女の子の表情がよりいきいきと輝いて見えるから釘付けになってしまった。母娘の共作もそっとそのなかに混じるように展示されていた。祝福に満ちた愛おしい時間をいっぱいに感じてこちらまで幸せな気持ちになった。

2013/05/05(日)(酒井千穂)

川口珠生 展「カラフルな疎外感」

会期:2013/04/30~2013/05/05

アートスペース虹[京都府]

ギャラリーの扉を開けると、透明ビニールのシートでぐるりと囲んだ狭い空間の内側で、工場用作業着のような真っ白なコスチュームを身につけた作家が、まるで空中にチョウを描いているようだった。これまでも空間自体をキャンバスに見立てた作品を発表してきた川口珠生。今回は透明のビニールに描かれたチョウが会期中に少しずつ増えていくというパフォーマンスで、時間という定まらない流動のなかにある存在やその曖昧な性質にアプローチしていた。ここで真っ先に目にはいるのはホワイトキューブに舞うような、色とりどりのチョウの鮮やかさなのだが、ギャラリー空間の奥に目をやると、なんとなく既視感を覚えるものの匿名性を帯びた人物の図像や、カラフルな線の戯れにも気がつく。わずかな風にもゆらりと揺れ、はっきりとは全体像の掴めない透明のレイヤーの奥のそれらのイメージは、いま自分が立っている場所や時間ではない過去の時空を思わせるのだが、かといって目の前を“飛んでいる”多数のチョウもまた所在なく心もとないイメージで、見ている私自身が少しだけ地面から浮いているような気分。実際に見えているけれど実感がともなわない感覚、倒錯感、それが川口の言う疎外感ということだろうか。それにしても儚げな雰囲気の表現が美しい個展だった。


作品(部分)。左はチョウを描く作家

2013/05/05(日)(酒井千穂)

SANDWICH

[京都府]

京都へ。アシスタント・キュレーターの堀江さんとともに、あいちトリエンナーレ2013に参加する名和晃平の拠点、工場をリノベーションしたSANDWICHを訪問する。昨年から実験を繰り返したサイトスペシフィックな名和ワールド作品の方針が決まり、制作進行も確認した。そして今回のための実験装置を見せていただく。もともと名和は、理系的なアーティストだが、これはなるほど理科の教室、あるいは夏休みの自由研究のようだ。

2013/05/05(日)(五十嵐太郎)

志賀理江子『螺旋海岸 album』

発行所:赤々舎

発行日:2013年3月28日

2012年11月~13年1月にせんだいメディアテークで開催された志賀理江子の個展「螺旋海岸」が、日本の写真表現の行方を左右するような途方もない問題作であることが明らかになりつつある。展覧会の会期中に刊行された『螺旋海岸 notebook』(赤々舎)が、志賀自身の連続レクチャーの記録を中心にした「テキスト編」だとすれば、今回の『螺旋海岸 album』は「作品編」と言うべきものだ。あの等身大以上の木製パネルが斜めに林立する展示会場の衝撃を再現するのはまず無理だが、この写真集も相当に凝った造本である(デザインは森大志郎)。基本的には見開き断ち落としのダイナミックなレイアウトなのだが、同じ写真が何度か違うトリミングで出てきたり、畳み掛けるように同種のイメージが繰り返されたりして揺さぶりをかける。鈴木清がデザイナーの鈴木一誌と組んだ『天幕の街』(1982)や『夢の走り』(1988)の造本を思い起こした。
それにしても、「螺旋海岸」の黒々としたブラックホールのような写真群は、見る者の視線を吸い寄せ、捉えて離さない強烈な引力を備えている。今回特に茫然自失させられたのは、30ページ以上にわたって続く「鏡」と呼ばれる白く塗られた石、石、石の写真だ。闇の奥からぬっと目の前に現われてくるこれらの石は、大きさも出自もまったく不明で、なぜこれらの写真が撮影され、他の写真群を取り囲むように配置されているのかまったくわからない。それでも、名取市北釜の住民たちとともに繰り広げられる儀式めいたパフォーマンスの記録が、これらのっぺらぼうの石たちを「鏡」として、反映・増殖していくプロセスには確かな説得力がある。『螺旋海岸』をどのように読み解いていくのかは、これから先の大きな課題だ。誰かに本気で志賀理江子論に取り組んでほしいのだが。

2013/05/06(月)(飯沢耕太郎)

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