artscapeレビュー

2016年10月15日号のレビュー/プレビュー

サン・ロレンツォ教会、旧聖具室

[イタリア、フィレンツェ]

サン・ロレンツォ教会とその旧聖具室へ。いずれもブルネレスキの設計である。古典主義を高度に複雑化させたミケランジェロに対し、明快で幾何学的なルールによって透明な空間をつくろうとしたことがよくわかる建築だ。特に旧聖具室と新聖具室の比較は、同じ形式をもちながら、細部が大きく異なっており、ルネサンスがいかに変容したかを理解するのに絶好のサンプルである。

写真:左・右下=旧聖具室 右上=《サン・ロレンツォ教会》

2016/09/15(木)(五十嵐太郎)

ブオナロッティ邸美術館

[イタリア、フィレンツェ]

初のブオナロッティ邸美術館。ミケランジェロ所縁の建物で、彼のスケッチを数多く所蔵し、日本の巡回展でも多く出品してもらった施設だ。サン・ロレンツォ教会の未完となったファサードのミケランジェロ案の巨大な木造模型もある。それにしても、当時のコンペ模型もそうだが、こうした木の模型は500年ちゃんと残るからたいしたものだ。

2016/09/15(木)(五十嵐太郎)

早瀬道生 個展「表面/路上/その間」

会期:2016/09/13~2016/09/18

KUNST ARZT[京都府]

「メディアと写真」について対照的なアプローチで問う2作品が発表された、早瀬道生の個展。《Newspaper/20160711》は、タイトルの日付に発行された、複数の新聞の一面と社会面を複写し、画像をレイヤー状に重ねたもの。メディア報道によって共有化された情報が過剰に重ねられていくことで、画面はノイズの嵐と化し、むしろ不可視に近づく。早瀬はこのシリーズを昨年から続けており、《Newspaper/20150716》《Newspaper/20150918》《Newspaper/20150920》を制作している。不明瞭な紙面と対照的に、唯一クリアな情報として残ったこれらの「日付」はそれぞれ、安保法案の採決が衆院を通過した日、民主党が提出した安倍首相の問責決議案が参院にて反対多数で否決された日、そして安保法案が前日未明に成立したことが報じられた日である。真っ黒に塗りつぶされて「読めない」紙面は、情報の不透明さや検閲の存在を示唆するかのようだ。そして、これら3つの日付の延長上にある、新作の《Newspaper/20160711》。この日付は、前日の参院選の結果、改憲4党が憲法改正発議に必要な2/3(162議席)に達したことが報じられた日である。
この日付はまた、もう1つの出品作《Take Takae to here》にも関連する。この作品では、機動隊員の青年のポートレイトが12枚、観客を無言で包囲するように壁にぐるりと展示されている。「見つめられている」という感覚は、写真における擬似的な視線の交差であると分かっていても、かなり居心地悪い。よく見ると、彼らの背後には白いフェンスや車両、路上のブルーテントが写っている。タイトルの「Takae」は、米軍のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)の移設工事をめぐって、反対運動が起きている沖縄県東村高江地区を指す。「20160711」は、参院選の翌日、建設資材の搬入が突如始まり、全国から機動隊が集められた日でもある。ヘリパッド移設の撮影取材ができなかった早瀬は、反対運動のデモ隊に混じり、自分を取り囲む機動隊にカメラを向けて撮影。ポートレイトとして展示することで、「本土へ引き取ることが難しい基地の代わりに、本土から沖縄に派遣された機動隊員をここに連れ戻そうと試みた」という。
《Take Takae to here》の異様な不気味さは、至近距離でカメラを向けられても動じず、直立不動の姿勢で立ち続ける機動隊員たちの「顔」にある。「個」を消す訓練を受けているであろう機動隊員たちは、制服という装置もあいまって、一見、均質で無個性で、集団の中に埋没しているように見える。しかし、至近距離でカメラを向けるという行為が、そこへ裂け目を穿つ。職務としての機動隊員というペルソナが引き剥がされ、「個」としての顔貌がさらけ出される。表情や目線の微妙なブレに表われた、一瞬の心理的な反応を、カメラは捕捉する。真っ直ぐ見つめ返す、訝しげににらむ、伏し目がちに目をそらす、虚空を見つめ続ける……。眼差しや表情の差異は、ほぼ等身大のプリントともあいまって、機動隊という集団的な枠組みから切り離し、「個人」として眺めることを可能にする。
彼らが見ているものは何か。彼らの眼差しの先にある、「不在」の対象は何か。カメラという装置の介在によってここに凝縮されているのは、国(及びその背後の米軍)と沖縄、本土から派遣された機動隊員と沖縄市民、という構図である。無関心、無視、困惑、苛立ち、不信感、動揺……。《Take Takae to here》は、(一方的で都合の良いイメージの収奪としての)「沖縄の」像ではなく、「沖縄への」私たち本土側の視線である。向けられたカメラは鏡面となり、写真を鏡像として送り返す。そして、写真の中の機動隊員たちが見つめている、あるいは目をそらそうとする「不在」の対象とは、「沖縄の基地問題」に他ならない。
ポートレイトにおける「個」と「集団」、「見る」/「見られる」関係性がはらむ権力構造に加え、「写真と眼差し」の問題を通して、沖縄をめぐる視線の場をポリティカルに浮かび上がらせた、優れた展示だった。


早瀬道生《Take Takae to here》会場風景

2016/09/16(金)(高嶋慈)

サン・フランチェスコ教会ほか

[イタリア、ミラノ]

Italoの特急に乗って、ミラノに戻る。ジオ・ポンティめぐりを再開する。かつて彼自身が凝った窓辺空間をつくって、最上階で暮らしたデッツァ通りの集合住宅(1957)へ。各住民が色を決める部分があり、ファサードはかわいらしくカラフルだった。この奥に彼が設計したロッセッリ工房もあるはずだが、道路からのぞいても見えなかった。そして一番見たかったサン・フランチェスコ教会(1964)へ。ダイアモンド形の開口が並ぶ巨大な屏風のような被膜としてファサードが、セラミック・タイルに覆われ、背後の茶色のタイルのヴォリュームと好対照をなす。クセのある造形といい、強力な個性である。最後にミラノ駅前のピレリ・ビルを訪れると、だいぶ見方が変わる。遠景では幾何学的な構成やプロポーションのよさが際立つが、近づくと、やはりタイルのテクスチャーが存在感をもつ。

写真:左=上から、デッツァ通りの集合住宅 左下2枚・右上=《サン・フランチェスコ教会》 右下=《ピレリ・ビル》

2016/09/16(金)(五十嵐太郎)

レオナール・フジタとモデルたち

会期:2016/09/17~2017/01/15

DIC川村記念美術館[千葉県]

昨年は戦後70年でたくさんの戦争画展が開かれ、映画「FOUJITA」が公開されたこともあって、藤田嗣治への関心が高まったが、いまふたつの大きな「フジタ展」が首都圏で開かれている。府中市美術館の「生誕130年記念 藤田嗣治展」は総合的な回顧展だが、こちら川村記念美術館のほうはタイトルにもあるように、モデル=人物表現に焦点を当てた企画だ。それにしても川村で「フジタ展」という取り合わせは意外な気もするが、同館は肖像画《アンナ・ド・ノアイユの肖像》を所有していること(依頼主が気に入らなかったため未完成に終わったというエピソード付き)、そして藤田の最初の妻とみの実家が同館近くの市原市にあったことも関係しているかもしれない。その妻宛の手紙やパリから送られたモード雑誌なども展示されている。作品は初期から晩年まで約90点。戦争画はないが(人物表現としては特殊すぎる?)、例の乳白色の裸婦をはじめ、だらしない姿を見せつける戦前の《自画像》や、細部まで丁寧に描かれた戦後の《ジャン・ロスタンの肖像》など、よく知られた作品もそろっている。圧巻は《ライオンのいる構図》をはじめとする4点の群像表現。3メートル四方の大画面にそれぞれ数十人の人物が描かれた大作だ。この大作志向、物語画志向がのちの戦争画につながっていくのだろうか。

2016/09/16(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00036668.json s 10128566

2016年10月15日号の
artscapeレビュー