artscapeレビュー

2016年10月15日号のレビュー/プレビュー

彦坂尚嘉「FLOOR EVENT 1970」

会期:2016/09/09~2016/10/29

MISA SHIN GALLERY[東京都]

彦坂尚嘉は1970年に、自室の八畳間と縁側に工業用ラテックスを流し込み、そのプロセスを記録するというパフォーマンスをおこなった。彦坂が所属していた美術家共闘会議(美共闘)は、この頃「1年間、美術館と画廊を使用せずに、おのおの1回ずつ有料の美術展を開催する」というプロジェクトを展開しており、この「FLOOR EVENT」もその一環として企画されたものである。彦坂が全裸でラテックスを撒く作業は、友人のアーティスト小柳幹夫が補助し、その様子を現代音楽家の刀根康尚が彦坂の用意したカメラで記録した。その後、彦坂自身が、ラテックスが乾いて、乳白色から透明になっていく過程を撮影している。ラテックスは10日後に床から剥がされた。
小柳と刀根以外は観客なしで、ひっそりと行なわれたこのパフォーマンスは、だが写真によって記録されることで、「アート作品」として自立していくことになる。翌71年には、第1回美共闘Revolution委員会のプロデュースで、記録写真による個展が開催されており、今回のMISA SHIN GALLERYでの展示には、ヴィンテージ・プリントと個展の案内ハガキが出品されていた。前衛アーティストたちの、体を張ったパフォーマンスの記録は、当時の空気感をいきいきと伝えてくれるだけでなく、一過性のイベントをアート作品として成立させるために、写真メディアが不可欠の役割を担っていることを明らかにする。この作品だけでなく、羽永光利や平田実による1960~70年代の前衛美術家のパフォーマンスの記録写真が注目を集めているのは、単にその資料的な価値というだけではないはずだ。パフォーマンスを画像として封じ込める写真が、むしろその行為の意味を補強・増幅し、魔術的なイメージに変換するのに一役買っているということだろう。

2016/09/23(金)(飯沢耕太郎)

寒川晶子ピアノコンサート~未知ににじむド音の色音(いろおと)~

会期:2016/09/24

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

寒川晶子は、88鍵あるピアノの鍵盤の全ての音を「ドからド#」の間に特殊調律した「ド音ピアノ」の演奏家。通常の平均律では、1オクターブを計12音に均等に分割するが、「ドからド#まで」という極めて狭い音程の中を12分割した「ド音ピアノ」では、微妙な差異と揺らぎを伴った音の広がりが、静かににじんでいくような響きが体感できる。
今回のコンサートでは、ド音ピアノのソロ曲に加えて、アクースモニウムの演奏者である檜垣智也との共演と、「音の織機」を演奏する人類学者の伊藤悟も加えた3者による共演が行なわれた。アクースモニウムとは、会場内に設置した複数のスピーカーをミキサーでリアルタイムに操作する、電子音楽のための多次元立体音響装置。また、「音の織機」とは、中国雲南省のタイ族に伝わるもので、布の紋様を織りながら、機織り機の立てる音の音色を操ることで、結婚前の女性が男性に想いを伝えるというものだ。一見、異色に思える3者のコラボレーションが、「音を聴くという体験」や「音楽」の幅を拡張してくれる体験になった。


会場風景 © Maki Taguchi

まず、寒川によるド音ピアノのソロが2曲。平均律という西洋音楽の基準に対して、無調音楽は12音という枠組みは保持したまま、長調や短調といった調性を排除することで相対化をはかったが、「ド音ピアノ」は調律そのものをいじり、「ド音」という固定化された基準を微分していくことで、平均律という西洋音楽の枠組みを相対化する。そうした批評性の射程に加えて、少しずつ異なる豊かな音が無数に存在すること、さらに音どうしの重なり合いが豊穣な響きとなることを実感させてくれた。それはピアノという楽器から鳴っている音には違いないのだが、「ぐわゎーん」と響き渡るお寺の鐘の音色、回廊にこだまするその残響、石の表面を激しく打つ驟雨、風に乗る遠雷、はるか彼方から響く海鳴り、空気を振動させる羽虫の群れ、といったものを連想させ、自然界のさまざまな音や現象に近く感じられる。「ピアノの音」であることの自明性から解放させる音響体験でもあった。
さらに、アクースモニウムとの共演では、舞台上に置かれた大小さまざまなスピーカーだけでなく、見えない客席背後や二階席にもスピーカーが仕込まれることで、360度の音響によって有機的な音の磁場が立ち上がる。それは電子音楽や録音音源の再生ではあるのだが、方向性をもった音に全身を囲まれ、音がぐるぐると旋回し、螺旋状に上昇していく空間に身を置いていると、ざわめきに満ちた深い森の中にいるように錯覚される。音という聴覚的現象によって、今いる場所が多重化していくのだ。
また、「音の織機」も加わった共演は、「ド」と「ド♯」の間に無数に存在する音と同様に、普段は「音楽」として意識して聴いていない音の中に、豊かな響きが潜在することに気づかされた。「トントン、カチャン」「カラン、コロン」という織機の立てる音が反復されることで、リズムを奏でているように感じられてくる。そこに寄り添う「ド音ピアノ」は、少しずつ異なる音が絡み合い、寄り合わされて複雑な表情をもつ布が織り上げられていくようで、「織機」とまさにつながる覚醒的な瞬間だった。

2016/09/24(土)(高嶋慈)

劇研アクターズラボ+村川拓也 ベチパー『Fools speak while wise men listen』

会期:2016/09/23~2016/09/25

アトリエ劇研[京都府]

演出家・ドキュメンタリー映像作家の村川拓也はこれまで、観客の1人を「被介護者」役として舞台に上げて、本職の介護労働者が障害者介護をデモンストレーションする『ツァイトゲーバー』や、「出演者候補」に指示書を送り、要請に応じて現われた出演者(と「不在」の出演者)によって舞台上の出来事が進行する『エヴェレットゴーストラインズ』などの作品において、演劇の原理的枠組みを鋭く問い直してきた。本作『Fools speak while wise men listen』は、日本人と中国人の「対話」の体裁を取りつつ、「対話」の不均衡さを露わにしながら、「反復構造とズレ」によって「演劇と認知」の問題に言及し、モノローグ/ダイアローグという演劇の構造へと鋭く迫っていた(本作は来年に再演が予定されている。以下はネタバレを含むことをご了承願いたい)。
白線テープで床に印された矩形のフレームの中に、2本のマイクが置かれ、舞台奥のスピーカーとつながっている。舞台装置は極めてシンプルだ。開演前に(あるいはすでに上演は始まっているのか)、ボーイッシュな雰囲気の若い女性が客席に向かって、中国語とジェスチャーで「携帯の電源を切って下さい」といった前説を述べる。2本のマイクは、向かって左側が「Japanese」、右側が「Chinese」であることも伝えられる。前説を述べ終えると、彼女はそのまま舞台の壁際に留まり続け、舞台中央に囲われた「フレーム」の中で、日本人と中国人の「対話」が始まる。


ベチパー『Fools speak while wise men listen』(2016年9月)演出:村川拓也

女性ペア、男性ペア、もう1組の女性ペア、女性3人と男性1人。対話相手は固定されたまま、計4組の対話が(ほぼ同じ内容で)4セット繰り返される。「初めまして。お名前は何ですか?」と互いに名乗り合い、にこやかなムードで始まる会話は、全て日本語で交わされる。中国人たちは皆、流暢な日本語を話し、日本での居住年数が長いのだろうと思わせる。だが、「初対面」という設定、微妙に隔たった距離感、マイクの介在という間接性、といった仕掛けによって、相手との適切な距離感を計りかねている緊張感が微温的に漂っている。雑談めいた会話はそれぞれ、「結婚と国籍」「日本のフーゾク」「中国人観光客のマナー」「アベノミクスと安倍首相」「パンダ」というキーワードを巡るものだ。だが、例えば「安倍首相についてどう思うか」という中国人からの問いかけは、「生活が良くなった実感がないので支持しない」という答えによって経済問題にすり替えられ、安保法制や憲法改正といったきわどい話題に触れることは回避されてしまう。あるいは、「日本のフーゾク」について尋ねる中国人男性は、女性差別と一体化した民族差別を発言するが、対面する日本人男性は、彼の声が聞こえていないかのように無視し、黙ったままだ。
だが、こうした「日本」と「中国」のあいだに横たわる政治的緊張感や心理的な隔たり、隠れた差別意識は、あくまで本作の表層に過ぎない。本作は「日本と中国の対話」という体裁を通して、むしろ対話の場における不均衡さや強制力を露呈させる。通訳者を介さず、同一言語(日本語)の使用を課すという強制力が働くこの場では、関係性は圧倒的に不均衡なものとしてあるからだ。そして、所在なげにずっと壁際で佇む彼女。「対話」を形づくるフレームの「外部」に置かれ、対話の場から疎外された彼女の存在は、この白線で囲われた空間が、「日本人」「中国人」というナショナリスティックな枠組みにはめ込んで発言させる場であることを示す。それは、より抽象的には、国籍によってカテゴライズ/分断する認識の枠組みだ。「対話」シーンの切れ目のタイミングで、彼女はフレームの中に足を踏み入れてマイクを手に取るが、もじもじと躊躇ったまま何も話さない。ある時は「右側(=中国人)」のマイクを取り、次は「左側(=日本人)」のマイクに持ち替える姿は、「中国人として発言するのか」「日本人として発言するのか」という、2つのナショナルアイデンティティの選択の狭間で躊躇していることを示す。
そして本作のもう一つの真の主題は、「反復構造とズレ」がもたらす、「演劇(本物らしさ)は観客の認知によって決まる」というテーゼである。本作の基本的構造は、計4組のほぼ同じ対話が4セット繰り返される反復構造にあるが、反復される度に少しずつズレが侵入してくるのだ。会話のテンポ、発話の「間」の取り方、笑い声のトーン、声のボリューム、身振りの大きさなどが少しずつ変化を加えて「再生」されることで、「ごく自然に見える/演技としては控えめ/ぎこちない演技/不自然で違和感を感じる」という印象のグラデーションが発生する。それは、「演出家が俳優に対して、少しずつ注文や条件を変えながら、出力のチューニング調整を行なう稽古を見ているような感覚」だ。
そして、「演技のグラデーション」が虚構の枠組みを突き抜けて「リアルな心情の告白」の極へと一気に振り切れるのが、疎外されていた彼女の「独白」とその後に続く、最後の1セットである。あんなに躊躇っていた彼女がついにマイクを持ち、中国語と日本語を交互に交えながら、やや震えを帯びた声で観客に語りかける。中国での幸せな子供時代、迫害を受けて日本に渡ったこと、日本の学校でのいじめ、日本社会になじめない日々、それでも日本で生きていく決意をしたこと…。抽象化された詩的な語りだが、彼女自身の半生だろう(と思われる)。真偽は定かではない。村川の書いた「台本(フィクション)」かもしれない。しかし、「台詞」として固定された対話の反復・再生を経験した後では、彼女の語りは「今ここでのリアルな告白」として迫ってくる。前半の時間を通して「虚構」に染められた「ダイアローグ」の形式と対置された、「モノローグ」であることも大きい。
この「語り」を経由した後では、再開・再生される「対話」は、もはや同じものとして目に映らない。会話の「間」を長めに取り、身振りや声のトーンが抑制されることもあいまって、嘘臭さが抜けたように感じるのだ。そして出演者の一人は、今までの「対話の台本」には無かった個人的なことを語り始める。マイクを介さず、一歩相手の方へ踏み出すことで、その語りはより親密さや切実さを帯びる。だが、その虚飾のない切実さは、「モノローグ」の形式へと回収されてしまうことで、目の前に対面する相手には届かない。リアルで切実な語りであるからこそ、いっそう残酷さが際立つ(この、感情的な揺さぶりと論理的な形式の明瞭さとに引き裂かれる経験が、村川作品に通底する「残酷さ」である)。
このように本作は、「(不在の)演出家が俳優の演技をチューニング調整する稽古風景」それ自体を舞台上で「再現」することで、演劇を成立させる「本物らしさ」とは、見る側・受け手(観客)の認知の問題であることを鋭く照射していた。その「稽古風景」はまた、「日本と中国が困難な対話を重ねようと努力する練習風景」でもある。3日間の上演が終われば、舞台装置としての(多くを物語っていた)白線テープはきれいに剥がされて消えるだろう。しかし、私たちの意識の中の「白線テープ」が全て剥がされる時は来るのだろうか。

2016/09/24(土)(高嶋慈)

山本聖子「色を漕ぐ:Swimming in Colors」

会期:2016/09/10~2016/09/25

Gallery PARC[京都府]

メキシコとオランダでのレジデンス経験を機に、近年、「色」を手がかりとした思考と制作を展開している山本聖子。本個展では、新作3点が発表された。
《からっぽの色》は、「“からっぽ”という言葉を聞いて何色を思い浮かべるか?」という質問を、日本・オランダ・メキシコなどさまざまな国の街頭で投げかけたインタビュー映像。「白」や「透明」という答えが多い日本人。国籍は異なっても、「空は何もない空間だから青」という答えも共通する。子供の頃に読んで怖かった本の記憶から「黒」と答える人、「血の色だから赤」と言うメキシコ人、平らな草原を見渡して「ここには何もないから緑だ」と言うオランダ人。「からっぽの色」という抽象的な概念だからこそ、各自が想像する答えの多様性は、文化、歴史、宗教、個人的な記憶、環境などが背後にあるのだろう。「継続中」という本作はまだ素材集めの習作段階と言えるが、より掘り下げた探究が作品として結実するのを待ちたい。
一方、《私の身体の一部は、私の生まれた国に行ったことがない。》は、作家自身を含め、空港や語学学校などで集めた「メキシコにいた外国人」の髪の毛を、「メキシコ滞在期間に伸びた部分(根元の方)/メキシコに来る以前から生えていた部分(先端の方)」に2分割して並べたもの。《からっぽの色》とは対照的に、国籍、人種や民族、性別、価値観といった多様性が、標本のように情報へと還元化されているが、「国籍」という規定の自明さが、「私の一部」であるはずの身体細胞によって、かくもあっけなく裏切られることを示している。この先にあるのは、「もし、全ての体細胞が『メキシコ生まれ』に入れ替わったら、その身体は『メキシコ人』と言えるのか」という、ナショナリティの自明性への問いである。


山本聖子《きみの内に潜む色》 2016、サイズ可変
ガラス水槽・映像・水・泥・プロジェクター・葉、木、他
写真:麥生田兵吾

また、出色だったのが《きみの内に潜む色》。茶褐色に濁った水槽の一面に、さまざまな人々のポートレイトが1人ずつ投影されるが、その映像は波に揺られる船のように上下に不安定に揺れている。彼らは船に乗っていたり、背景に水辺が映っていることで、旅や移動、海を越えて移動する移民の不安定な生やアイデンティティを連想させる。一方、濁った水槽には、枯葉や木の枝、泥が堆積し、さらに内部を見通せない物質的厚みが「沈殿した記憶の器」を想起させる。土や泥、落ち葉の断片、さまざまな色が混じりあった濁りと、船を「漕ぐ」ような不安定な揺動。私たちはそれぞれ、「記憶の器」を抱えながら、不安定だがフレキシブルな揺らぎを生きているのだ。

2016/09/24(土)(高嶋慈)

あいちトリエンナーレ2016

会期:2016/08/11~2016/10/23

芸術文化センター、長者町ほか[愛知県]

あいちトリエンナーレ2016をまわる。芸文センターは、2週目の鑑賞だ。メタ・ミュージアムというか、収集・コレクション系の作品が多く、実際に展覧会内ミニ展示やリサーチ・プロジェクトも複数企画されており、さまざまなモノが並ぶ、というのが今回の特徴だろう。やはり、芸術監督の個性がよく出ている。長者町の会場は3週目だが、2010年以降のあいちトリエンナーレを契機にこのエリアは本当におしゃれなお店が増えた。またトリエンナーレ会場になった建物は、経済が活性化しているために、多くが解体の運命で消えていく。

2016/09/24(土)(五十嵐太郎)

2016年10月15日号の
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