artscapeレビュー
2016年05月15日号のレビュー/プレビュー
Concussion/スポットライト
飛行機では、『Concussion』と前の週に時間切れとなった映画『スポットライト』を鑑賞した。後者はアメリカのカソリック教会における児童の性的虐待を報道した地方紙を描いたものだが、地味な人事資料の山を徹底的に照合して事の真相を暴く、歴史調査のような手続きにぐっとくる。同じく実話に基づく「Concussion」は、アメリカン・フットボールの試合中の脳震とうが引き起こす深刻な問題を扱うが、組織的な隠蔽工作と闘う主人公たちの使命感という点でモチーフが共通する。
2016/04/18(月)(五十嵐太郎)
「文字の博覧会 ─旅して集めた“みんぱく”中西コレクション─」展
会期:2016/03/04~2016/05/17
LIXILギャラリー大阪[大阪府]
あまりにも身近な存在ゆえに普段それほど意識することのない「文字」。本展は、国立民族学博物館の「中西亮コレクション」約80点を通して、世界の文字文化の多様性と魅力に迫るもの。「中東・欧州文字文化(ヘブライ・アラビア・ギリシャ・ラテン文字等)」、「インド・東南アジア文字文化(デーヴァナーガリー・タミル・バタク文字等)」、「東アジアの漢字文化(西夏・チベット文字等含む)」の三つの文化圏を核として展示がされている。文字が記される媒体もそれぞれで、紙・皮・植物・布・粘土等の多様な素材である。各地の文字を見るとき、その造形性と面白さを愛でるだけでなく、筆記者としての人々の身体的な運動性や、その根底にある風土・宗教・宇宙観等の諸文化へ思いを馳せることになる。何よりデジタル・フォントに慣れた現代の私たちにとって、本来の文字と文字の連なりに潜む、柔らかな響きあい、筆の動きと滲み、文字の連鎖、リズム性といったものが、よりリアルに迫ってくる。記された文字のエネルギーを目の当たりにして、近現代の活字による表現の可能性についても考えさせられる展覧会。[竹内有子]
2016/04/19(火)(SYNK)
田中功起 共にいることの可能性、その試み
会期:2016/02/20~2016/05/15
水戸芸術館現代美術ギャラリー[茨城県]
水戸芸術館の芸術監督、浅井俊裕さんが亡くなり(享年54)、水戸市内でのお通夜に出席する前に芸術館に寄る。不謹慎だが、お通夜のついでに見に行ったのか、お通夜を口実に見に行ったのか、自分でもわからない。田中功起の新作《一時的なスタディ:ワークショップ#4 共にいることの可能性、その配置》は、一般参加者がファシリテーターや撮影チームらと6日間一緒にすごし、朗読、料理、陶芸などのワークショップやディスカッションを行なった記録映像を中心に構成されている。時間がないせいもあって映像はほとんどスルーしたにもかかわらず(時間があっても見なかったと思う)、また、10人以上が6日間を過ごした濃密な体験にまともに向き合う余裕(精神的にも時間的にも)がないにもかかわらず、展覧会の印象が予想以上に悪くなかったのは、映像や仮設壁、ワークショップでつくった陶器などの配置が、一見混沌としながらよく計算されていて美しく、随所に挿入される言葉が適切だったからに違いない。田中の意外に確かなデッサン力がうかがえる。
2016/04/19(火)(村田真)
クリテリオム92 土屋紳一
会期:2016/02/20~2016/05/15
水戸芸術館[茨城県]
昔、作者がつくったカセットテープを聞く人たちのビデオと、70年代のオーディオ機器4台がそれぞれ分解されるまでの写真の展示。一瞬オタクかなと思ったが、配布プリントを見ると社会意識の高さがうかがえる。配布プリントにはフィリップス社によりテープ・レコーダが発売された1962年以降のカセットテープの移り変わりと、現在までの電子メディアの発達史が、国内トピックと世界情勢などとともに年表にまとめられているが、特筆すべきは「電力関連」として福島第一原発1~4号機の着工から事故停止までも載せていること。東京造形大学、IAMAS、デュッセルドルフ芸術アカデミーを出たグローバルな視野を有するアーティスト/アクティヴィストのようだが、近年日本での発表が少ないのが残念。
2016/04/19(火)(村田真)
高田冬彦「STORYTELLING」
会期:2016/04/16~2016/05/21
児玉画廊[東京都]
東京都現代美術館の「キセイノセイキ」展では過去作(「Many Classic Moments」「JAPAN ERECTION」)が展示されている高田冬彦。この展覧会の問題意識には賛同したいものの、高田の創作の原動力は「キセイ」への反省や反発ではないから、あの起用はどうしても高田の過小評価に映ってしまう。言い換えれば「キセイ」への問いかけという「正しい」振る舞いによってでは、高田作品が写し取ってくる人間の「おかしな」状況を保持するのは難しい、ということだろう。「おかしな」と形容してみたが、他の作家にはあまりない高田作品の特徴に、普通の人間の心情を描くというところがある。人間には誰だって自分を「見せたい」、他人から「見られたい」という欲望がある。自分を誇示し、他者から評価をえるために、美しく、かっこよくなりたい。普通の人間はだからゲスい。ゲスさを隠してかっこよく美しいものやコンセプトを掲げるのもこれまた(他者を意識した)十分にゲスい振る舞いだが、世の中に流布している「美術」とは大抵そういうものだろう。高田はもう一度それをひっくり返す。そこで重要なのは、公の眼差しを回避できる自宅アパートを撮影スタジオにしていることだ。Youtuberと同じく、高田は自宅で私秘的な行為をカメラ前で繰り返す。Youtuberと違うのは、高田の欲望はクリック回数を増やすところにではなく、公の視線を意識するとひとは隠してしまいがちな、「見られたい」「見せたい」欲望とそのファンタジーを躊躇なく開示してしまうところにある。本展の表題作「STORYTELLING」(2014)では肛門のまわりに付けたインクがロールシャッハ・テストの如き形をとり、その形を高田が解釈し、物語る。「Cambrian Explosion」(2016)では立って歩きたい人魚に扮した高田が自らの尾びれを刃物で真っ二つにする。「Ghost Painting」(2015)の高田は、白い布をかぶった幽霊が赤く血濡れた頭(高田の頭)をカメラ前の透明な壁(キャンバス)に押し付け、赤色の絵画を描く。「Afternoon of a Faun」(2016)では高田演じる牧神男が性的夢想の中で、妖精たちに翻弄されながらセルフィーに耽る。どれもカメラを前にした興奮が肉体的衝動を実行に移させている。普通のことだ。「おかしな」普通が露出している。これは、いわば生々しいポップ・アート(大衆を描くアート)なのである。
図版:高田冬彦「Afternoon of a Faun」2015年 (映像からのキャプチャー)
写真提供:児玉画廊 / courtesy of Kodama Gallery
2016/04/20(水)(木村覚)