artscapeレビュー

2011年07月15日号のレビュー/プレビュー

佐川好弘 展──トラフィックマーキング シリーズ

会期:2011/06/20~2011/07/03

STREET GALLERY[兵庫県]

商店街の道路に面したショーウインドウスタイルのギャラリーで佐川好弘が作品を展示した。道路に表記される案内表示を真似て、実際に路上にメッセージボードを設置するという《トラフィックマーキングシリーズ》で、ギャラリーの近所にある道路の「止まれ」に「ない」の二文字のボードを加えてその場を撮影した写真作品と文字ボードのパーツが通りから見える。近所の子たちだろうか、訪れたとき、外に吊るされた芳名帳に作家へのメッセージを熱心に書き込んでいる二人の小学生がいた。このギャラリーならではの場面だが、佐川の言葉の作品にはおしなべて、世代を問わず見る人が彼に近づき、話しかけたくなるような魅力があるよう。明快で笑いを取りやすいインパクトのせいももちろんあるだろうが、どちらかというとそれよりも、こっそりといたずらを仕掛けるような引っ込み思案の“匂い”がするせいかもしれない。

会場風景

2011/06/24(金)(酒井千穂)

TNA《キリの家》

会期:2011/06/25

[東京都]

TNAの作品としては最小のフットプリントだが、内部に入ると、立体的に空間が連続し、外の風景も、全面ガラスのファサードにペイントされたキリの濃淡によって、選択的に取り入れ、それを全然感じさせない。最初に入ったときは、平らな床がほとんどない、小さな駐車場のようにも思えた(間仕切りもない)。それが身体と応答し、ふるまいを生み、空間に彩りを与える。中心線には強い大黒壁があり、安心感をもたらす。

2011/06/25(土)(五十嵐太郎)

シンポジウム「アート × 建築 × 震災後」(大木×彦坂尚嘉×五十嵐)

会期:2011/06/25

Art Center Ongoing[東京都]

乱れた自分の部屋をそのまま会場に持ち込んだかのような、吉祥寺の大木裕之展「うちんこ!」に連動して開催されたトークイベント。大木さんは東京大学の建築学科の先輩にして映像作家である。今回初めて、彼の街の風景を扱う卒計から初期の映像作品「松前君」シリーズに展開していたことを知った。そして卒計では、槇文彦さんと三時間議論し、君のは建築ではないと言われたらしい。なお、卒論には映像も使用したという。

2011/06/25(土)(五十嵐太郎)

母袋俊也 展:Qf・SHOH《掌》90・Holz──現出の場─浮かぶ像─膜状性

会期:2011/06/13~2011/06/25

ギャラリーなつか[東京都]

ギャラリー内にもうひとつ展示室をつくって内壁を黒く塗り(ホワイトキューブならぬブラックボックス、あるいはカメラ・オブスクラ?)、正面に1点だけ絵を設置。絵は正方形で、画面にはルブリョフのイコンや阿弥陀如来の掌を組み合わせた図像が描かれている。絵に厚みが感じられないので近づいてみると、画面より底面が狭くなるように側面が斜めに削られている。つまり闇のなかに画像だけが浮かび上がる感じ。脇に回ると、絵の掛けられた壁の後ろあたりにのぞき穴があり、のぞいてみると光しか目に入らない。もしそこにヌードが見えたら喜ぶ人もいるだろうが、母袋はそんなサービスはしない。ただ光があるだけ。これって、先史時代の洞窟壁画を思い出させないか。洞窟の闇のなかに描かれた動物の絵は、岩壁の奥にいるであろう動物の神と交信するために描かれたとする説があり、そうだとすると視線は絵の描かれた壁を貫いてあちら側に向かい、逆に神(光)は壁の奥から絵というスクリーンを通ってこちら側へ現われるはずだ。そのとき、絵はこちら側とあちら側の界面に現出する幻像のようなものかもしれない。これは洞窟壁画だけでなく、洞窟を模したといわれるキリスト教会の聖画にも当てはまるだろう。絵をタブローという単体で考えるのではなく、「絵」が現出する場として提示すること。はたしてこれは「プレ絵画」なのか、それとも「ポスト絵画」なのか。

2011/06/25(土)(村田真)

吉野辰海 展

会期:2011/06/20~2011/07/02

ギャラリー58[東京都]

切断されたブタ(の剥製)の断面がハムになっていたり(吉村益信)、巨大な金属の耳ばかりつくったり(三木富雄)。ネオダダの連中には身体をモチーフにしたグロテスクな作品が多いが、なかでもひときわグロテスクで意味不明なのが吉野辰海の犬だ。今回ますます迷走度を高め、顔は犬だが後頭部はゾウ(反対にゾウが顔で後頭部が犬というのもある)、しかも皮が剥がれて濃いピンク色をして、身体は裸の少女というワケのわからないものをつくっている。これを「抑圧された動物的本能の側からの合理主義的思潮に対する意趣返し、もしくは肉体や情念の側からの主知主義的モダニズム美術に対する逆襲」(三田晴夫)と読む者もいて、なるほどなあと思う一方で、そんな深読みは逆に作品を矮小化するのではと思ったりもする。だってこんなにワケのわからないものをつくれるだけで尊敬しちゃうもん。ならば好きかと問われればノーといわざるをえないが。

2011/06/25(土)(村田真)

2011年07月15日号の
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