artscapeレビュー
2010年12月15日号のレビュー/プレビュー
韓超(ハン・チャオ)「私の惨めな小宇宙への狂詩曲」
会期:2010/11/05~2010/11/21
ZEN FOTO GALLERY[東京都]
韓超(ハン・チャオ)とはじめて会ったのは、2010年4月に中国・北京郊外で開催された「草場地春の写真祭」の関連企画として開催されたポートフォリオ・レビューの会場だった。この時は、北京在住の写真家を中心に10人余りの作品を見たのだが、そのなかで最も強い輝きを放っていたのが彼の写真だった。ポートフォリオ・レビューには、ZEN FOTO GALLERYのオーナーのマーク・ピアソンもレビュアーとして参加しており、彼もやはり韓超の仕事に目をつけていたようだ。その縁で、25歳というまだ若い彼の最初の個展を東京で開催することになったのは、とても素晴らしいことだと思う。
韓超のテーマは、ゲイである彼のプライベート・ライフである。もちろん、この種の写真は欧米諸国でも日本でもたくさんあって、とりたてて珍しいものではない。とはいえ、まだ差別や蔑視の感情が強い中国で、ゲイとしてカミングアウトして生きていくのは相当な困難がともなうはずだ。そんな社会との軋轢、厳しい人間関係が、彼の写真に強い緊張感や不安感をともなって写り込んでいる。だが基調となっているのは、そのようなネガティブな感情ではなく、むしろ「愛と写真」の力を信じて、自分と男友達、そして家族などの姿をしっかりと記憶に刻みつけておこうとする彼の強い意志だ。それが彼の写真に、触れれば火傷しそうな熱と、どこか冷ややかな距離感とを同時にもたらしている。ポートレートもいいが、部屋のインテリアや花などをさりげなく撮影したスナップにも実感がこもっていて、じっと見入ってしまうような力がある。
写真家としての才能に恵まれた彼が、それをこのまま順調に伸ばしていくことができるといいのだが。
2010/11/08(月)(飯沢耕太郎)
麻生三郎
会期:2010/11/09~2010/12/19
東京国立近代美術館[東京都]
麻生三郎というと「洋画」とか「団体展」とかの旧体制に片足を突っ込みながら、現代絵画の発展にも寄与した新世代の画家でもある。それはまた絵画に「生きざま」を投影する最後の世代でもあるわけで、これが敗戦直後に死んだ靉光ならば位置づけしやすいけれど、戦後も長く画業を積み重ねたとなると、近代美術館的にも評価が難しいところではないかしら。なんてことを考えさせられた展覧会。
2010/11/08(月)(村田真)
松江泰治「suevey of time」
会期:2010/10/23~2010/11/20
TARO NASU[東京都]
写真作品15点と、映像作品7点による展示。初期作品(1987年発表の「TRANSIT」)と新作のビデオ作品(「suevey of time」)という組み合わせは、10月に同じ会場で開催された宮本隆司展とまったく同じである。ギャラリーの企画意図があるのかと思ったのだが、「まったくの偶然」なのだそうだ。だが、このところ強まりつつある、写真を中心に発表してきた作家が映像にも触手を伸ばそうとしているという傾向のあらわれといえるだろう。フル・ハイビジョンカメラの登場とモニターの性能のアップによって、写真家たちも充分に納得できる画像レベルをキープできるようになったことが、その背景にありそうだ。
「TRANSIT」は松江泰治の個展デビュー作で、その頃はまだ東京大学理学部地理学科を卒業したばかりだったはずだ。在学中から撮りためていた35ミリフィルムを使った路上スナップには、当時彼が私淑していた森山大道の影響が色濃い。だが同時に、その後の松江の代名詞となった、大判カメラによる「Landscape」シリーズにつながっていく要素もはっきりと見てとれる。画面全体を、地上に遍在する事物の表層の連なりとして、等価に把握していく視点が見事に一貫しているのだ。彼の作家活動の原点を、あらためて確認できたのがとてもよかった。
新作の「suevey of time」は意欲作である。撮影されている風景は、松江のこれまでの作品でおなじみの場所であり、視点を高くとるカメラ・ポジションも共通している。フルハイビジョンの画像は鮮明で、一見するとスチル・カメラで撮影された作品のようだ。ところが、画面を眺めていると自動車や人物が横切ったり、道端の猫や草原で草を食んでいるリャマがわずかに移動したりして、それが動画であることがわかる。さらに画像がループ状につながっているので、そのつなぎ目の場所にくるとイメージがふっと消えて、わずかに違った場所に再び出現したりする。静止画像と動画との違いを逆手にとって、事物を「見る」という行為を再検証しようとしているのだ。「時間」という体験そのものの映像化の試みという見方も成り立つだろう。宮本隆司もそうなのだが、松江も作品の発想そのものが、よりフレキシブルなものに変わりつつある。
2010/11/09(火)(飯沢耕太郎)
澤田知子「Mirrors」
会期:2010/10/24~2010/11/24
MEM[東京都]
現在はニューヨークを拠点に活動している澤田知子。今回も相変わらずの「セルフポートレート」だが、以前の作品とは微妙に印象が違って見える。前はどれだけ違ったタイプの人物に、どれだけ大きな幅で変身できるかが目標のようなところがあったのだが、近作になるにしたがってより微細な差異にこだわり始めた。今回の「Mirrors」は一卵性の双子がテーマで、よく似た二人の人物が並んでこちらを見ているポートレートのシリーズである。いうまでもなく、どちらの人物も澤田自身が演じているのだが、髪型、メーキャップ、衣裳などを微妙にいじって変えている(まったく同じように見える作品もある)。その細かな違いを見比べているうちに、自分と同じ顔の人物がもうひとりいるという、あの双子という存在につきまとう奇妙な違和感=恐怖感がじわじわと形をとってくるのに気がつく。旧作のような派手さはないが、玄人好みのいいシリーズだと思う。
ちょっと思い出したのはザ・ピーナッツのこと。1960~70年代に人気があった双子歌手だが、彼女たちの鼻の横にはホクロがあって、その位置の違いで二人の区別がつくようになっていた。澤田知子も鼻の下にホクロがある。実はそのホクロを目の横に移動させた作品が一点だけある。だが、他の作品ではホクロは元の位置のままだ。それが妙に気になってしまった。ホクロの移動をもっと積極的に試みると、面白い効果を生むのではないだろうか。
2010/11/09(火)(飯沢耕太郎)
鈴木清 写真展 百の階梯、千の来歴
会期:2010/10/29~2010/12/19
東京国立近代美術館[東京都]
鈴木清が亡くなったのは2000年3月。時の流れの速さに愕然とするのだが、没後10年にあたる今年に回顧展が、しかも東京国立近代美術館というベストの会場で実現したのは本当によかった。「ようやく」という気がしないでもないが、逆に彼の仕事があらためて広く評価されるためには、10年という時間が必要だったともいえる。彼の過剰ともいえる写真集や写真展への執着、果敢な実験精神には、それくらいの期間がないと追いつけなかったということだ。
今回の展示は彼が生涯にわたり、惜しみなく精力を注いで刊行し続けた写真集(1冊を覗いては自費出版)に収録された写真を中心に構成されている。『流れの歌』(1972年)から『デュラスの領土』(1998年)に至る8冊の写真集は、イメージとテキストの混在、写真のくり返し、入れ子構造(写真集の中の小写真集)、折り込み、観音開きなど、ありとあらゆるブック・デザインの手法を駆使した魔術的とさえいえる「書物」である。そのカオス状の構造体を、美術館の展示で再現するのは不可能であり、むしろ見やすくきっちりと写真が並べられていた。だが、大きさを変えてプリントされた同じ写真が何度かあらわれたり、写真集そのものを閲覧するコーナーが設けられたりするなど、鈴木清の作品世界の追体験の場としてとてもうまく機能していたと思う。
だが、今回の展覧会で特別な輝きを放っていたのは、あの伝説的な「ダミー写真集」の展示ではないだろうか。鈴木清は写真集の刊行に向けて、必ず自分の手で「ダミー写真集」をつくっていた。彼は故郷の福島県いわき市で、定時制高校に通いながら印刷所の見習いをしており、写真集のレイアウトや文字組はお手の物だったのだ。これら写真をコピーしてテキストを貼り付けた「ダミー写真集」は、持ち歩いているうちに擦れたり汚れたりして、次第に独特の物質感を備えたオブジェと化していく。その風格や存在感は、完成した印刷物としての写真集をはるかに凌駕しているともいえる。というより、彼の写真集づくりの思考と実践のプロセスが、生々しく刻み込まれた「ダミー写真集」こそ、むしろ彼の作品世界の中心に位置していたようにも思える。
驚かされたのは、1996~98年にコニカプラザ東ギャラリーで開催された連続展「デュラスの領土」のための「個展プラン」である。サインペンや色鉛筆でさっと描かれた、見事としかいいようのないドローイングは、彼の優れたデッサン力をまざまざと示している。頭に思い浮かんだイメージを、さっと形にしていく能力の高さは天性のものがあったのだろう。このデッサン力があったからこそ、一見無頓着に見える彼の写真にも。しっかりとした骨組みを感じとることができるのだ。
この展覧会が、日本における鈴木清評価の第一歩になることを期待している。特に鈴木清の名前すら知らなかった若い世代にぜひ見てほしい。同時に刊行された彼のデビュー写真集『流れの歌』の完全復刻版(白水社刊)も素晴らしい出来栄えである。写真凸版(活版)印刷が、スミとグレーの二色刷りオフセット印刷に置き換えられているのだが、その黒が締まった重厚な印刷は、原本と比べても遜色がない。
2010/11/10(水)(飯沢耕太郎)