artscapeレビュー
2016年02月15日号のレビュー/プレビュー
壽初春大歌舞伎
会期:2016/01/02~2016/01/26
[東京都]
竣工:2013年
東銀座の新しい歌舞伎座の内部空間を初めて体験する。安定感あるデザインは、隈研吾ならではだ。に比べても、かなり横長の舞台であり、西洋の垂直性が強い劇場と全然違う。演目の「廓文章」は、放蕩息子が久しぶりに再会した遊女と痴話喧嘩と仲直りするのだが、最後はちょうど勘当が解かれ、親から身請け金がもらえてハッピーのすごい話である。
2016/01/22(金)(五十嵐太郎)
高谷史郎『ST/LL』
会期:2016/01/23~2016/01/24
滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール[滋賀県]
薄暗い舞台上には、奥へ伸びる細長いテーブルと、縦長の巨大なスクリーン。ワイヤーで吊られたカメラがするすると下りてきて、テーブル上に置かれた空っぽの皿、カトラリー、ワイングラスをスクリーン上に映し出す。still=静物画。リンゴの赤だけが妖しく光る。向かい合った2人の女性が、食事をする仕草を厳かに始める。一方が片方の鏡像のように、左右対称でシンメトリックな動き。背後のスクリーンの映像も、垂直方向に反映像を生み出す。だがパフォーマーが動いた瞬間、広がった波紋がそこに亀裂を入れる。鏡のように見えたそれは、じつは浅く水の張られた水面だったのだ。テーブルに置かれた食器類やテーブル上で横たわって蠢くパフォーマーの身体は、スクリーンに映し出され、さらに水面=鏡に反映し、幾重にも分裂・増殖していく。
別のシーンでは、走り回り、くるくると旋回するパフォーマーたちの身体は、照明の効果によって影のように黒く浮かび上がり、あるいはスクリーンに影絵のシルエットを映しながら、虚と実の世界を目まぐるしく交替し、現実のスケール感や実在感を失っていく。光と影だけのモノクロームの世界への圧縮。鏡のように澄みきった水面の上で静止(still)した世界では、どちらがリアルでどちらが虚の世界かわからない。空っぽのお皿から晩餐を食べるフリをする冒頭のシーンのように、「そこにないはずのものが『ある』」「あるはずのものが『ない』」、その境界が曖昧になっていく。
アイヌ語の子守歌が歌われる中、ライトの森が星空のように降ってくる。紙片が雪のひとひらか花びらのように撒かれ、ゆっくりと宙を漂い、暗い水面を砕けた流氷の浮かぶ海面に変えていく。映像の中で食器やカトラリーが落下し、ワイングラスが粉々に割れる。破滅的な予感の中で、ダンサーは時に影となり実体を曖昧にさせながら、周囲を旋回するカメラと見えないデュオを踊り、やがて日蝕が訪れ、すべてが闇に包まれた後、崩壊の後のかすかな予感を思わせる光が射し込んで幕を閉じる。
明確な筋はないが、完璧に制御された映像と照明と音楽によって、美しい白昼夢のような断片的なシーンが次々と連なっていく。水面がもうひとつの世界を出現させ、パシャパシャという水しぶきが覚醒の音を淡く響かせながら、波紋がどこまでも広がっていき、すべては明晰に覚めた夢。
2016/01/23(土)(高嶋慈)
《Showing》03 映像 伊藤高志 マルチプロジェクション舞台作品『三人の女』
会期:2016/01/23~2016/01/24
京都芸術劇場 春秋座[京都府]
「『公演』における各要素の中で、複製技術を持つメディア(音、写真、映像など)を取り上げ、それぞれの視点から劇場へと向かう創作を試みる」《Showing》シリーズの第3弾。伊藤高志は、80年代以降、静止画のコマ撮りによる魔術的なアニメーション作品など、実験映画の制作を行なってきた。本公演は、「マルチプロジェクションの映画」を舞台空間において「上映」し、観客の身体と地続きの空間で起こる「出来事」を侵入させることで、映像インスタレーション/映画の文法/演劇の境界を溶解させるとともに、記憶(記録)の再生/出来事の一回性、複製可能性/「いまここ」の唯一性、複数のスクリーン間で連動・分裂した表象/生身の身体性、といったさまざまな対立項の間を行き来する磁場を立ち上げていた。
舞台上には、3枚の巨大なスクリーンが、三面鏡のように角度をつけて、間隔を隔てて設置されている。無人の舞台の中央には、一枚のワンピースが吊り下げられている。そして3面のスクリーンでは、同一のシーンが異なるアングルで分割して映し出され、時に同期しながら、3人の若い女性の物語を紡いでいく。彼女たちは大学の映像学科の学生である。
冒頭、劇中劇の撮影シーンが挿入されるように、終始無言で演じられるシーンは、劇的な予感に満ちている。カメラを通した窃視、相手を求める手、情事、そして仄めかされる死。台詞が一切なく、カット割りや視線の動き、音響効果だけで物語を進行させる方法は、映画の文法を高純度に抽出してみせている。それは、視線の動きや抑制された身振りだけで登場人物の心情を思い描く余白を与えるとともに、愛らしいバラの形の補聴器を耳に付けた女性の生きる世界を暗示する。
彼女はもう1人の女の子と付き合っていて、屋上や公園で、スキンシップのようにカメラを向けられる。3人目の女の子はそんな2人に友人として接しつつも、補聴器の女性に魅かれている。戯れる2人の傍らでひとり空にカメラを向け、地面をフロッタージュし、マイクで地面や水の音を採取し、自分の脈動を録音し続け、映画の制作に打ち込む。最後に、この世にはもういないはずの「彼女」の手が一瞬だけ優しく触れる、そんな幻覚とともに深い森の中に取り残されて映像は終わる。
しかし次の瞬間、映像内にいたこの女の子が舞台上に現れ、虚実が反転する。彼女は、物語の中で撮られていた16ミリフィルムを映写機にかけて私たち観客とともに鑑賞し、闇の中へ去っていく。映像内の世界が「現実の」舞台空間上に転移して現れ、観客の身体と地続きの空間へと侵入し、物語内で撮られていた16ミリが実際に「再生」される一方で、肉体の不在感を喚起する吊られたワンピースは、物語の中で身に付けられている。いくつもの入れ子構造の絡まり合いとともに、マルチスクリーンの映像インスタレーション、文法としての映画、演劇、といった弁別がハイブリッドに混淆していく。
カメラを手にした窃視者、見る者と見られる者、女の子同士の恋愛感情、死や自殺へ向かう願望、あてどない徘徊、亡霊の出現といった要素は、『めまい』『静かな一日・完全版』『最後の天使』といった2000年代以降の映画作品の流れを組むが、複数のスクリーンの配置による空間性や演劇の現前性を組み込むことで、より厚みを増した複雑な体感世界が構築されていた。
2016/01/23(土)(高嶋慈)
未来を担う美術家たち 18th DOMANI・明日展 文化庁芸術家在外研修の成果
会期:2015/12/12~2016/01/24
国立新美術館[東京都]
文化庁による芸術家の海外派遣、研修の成果を示すもの。巨大な壁画の木島孝文、近くから見ると俗で遠くから見るとバロック化する古川あいか、力強い造形の松岡圭介、新国立競技場を描いてほしかった風間サチコ、いつもと違う作風で福島の状況を示す栗林隆などが印象的だった。
写真:上=木島孝文、下=古川あいか
2016/01/23(土)(五十嵐太郎)
はじまり、美の饗宴展 すばらしき大原美術館コレクション
会期:2016/01/20~2016/04/04
国立新美術館[東京都]
歴史をたどりながら、大原美術館のコレクションを紹介する。最初期には倉敷の小学校で日本初のオリエント展示を行なっていたのが興味深い。東京で西洋美や国立近美のハコができる前からいち早く活動を開始し、長く継続しつつも保守化せず、新機軸を打ち出す。興行としての企画展ではなく、常設で勝負できる美術館だ。
2016/01/23(土)(五十嵐太郎)