artscapeレビュー

2017年04月15日号のレビュー/プレビュー

砂連尾理『猿とモルターレ』

会期:2017/03/10~2017/03/11

茨木市市民総合センター(クリエイトセンター)センターホール[大阪府]

「身体を通じて震災の記憶に触れ、継承するプロジェクト」として、公演場所ごとに市民とのワークショップを通じて制作される本作。2013年に北九州で、2015年に仙台で上演され、今回の大阪公演は、市内の追手門学院高校演劇部とのワークショップを経て上演された。また、震災後の東北でメディアと記録活動に関わる作家の集団 NOOKとも協働。映像作家の小森はるかとユニットを組む画家で作家の瀬尾夏美は、「2031年」の想像上の陸前高田を春/夏/秋/冬の4つのシーンで描いた小説『二重のまち』を朗読した。また、映画監督の酒井耕は、自身も舞台に上がって時に群舞に加わり、出演者との距離を限りなくゼロに縮めながら舞台作品を記録した。
公演は、瀬尾を含む4人の女性出演者が「あの日」を振り返る雑談風のシーンで始まる。客席に向かってフランクに語りかけ、「第四の壁」の消失と観客の存在の肯定がなされるなか、背後ではスーツ姿の2人の男(ダンサーの砂連尾理と垣尾優)が黙々と、フラットな台を運び込み、積み上げていく。瀬尾の朗読が始まる。2031年春、「僕」が父親に連れられ、石碑の裏にある扉から地中に続く階段を降りると、そこは一面の花畑の中、消えかけた道路や家の土台が残る不思議な空間だった。それは、かさ上げ工事で埋め立てられる前の、震災の爪痕と生活の痕跡を残した「かつて」の町の姿だ。台を積み上げる男たちの姿が、かさ上げ工事とオーバーラップする。出来上がった「高台」の上にぶわっと被せられ、波のようにはためくブルーシート。本作はこうしたメタファーを随所に散りばめつつ、声と身体を駆使した圧倒的なパフォーマンスと反復の密度によって、構成の計算高さを吹き飛ばす強度を備えていた。
とりわけ何度も反復されるのが、向かい合った2人が握手して手をつなぎ、互いを強く求め合うゆえに、自分の方へ引き寄せようと引っ張る力が拮抗し、ギリギリのバランスが崩れた瞬間、手が離れて仰向けに倒れてしまうシークエンスだ。求め合う力が反発力に反転し、共倒れになる。このシークエンスが砂連尾と垣尾の2人のみならず、十数人の高校生たちが次々に行ない、地に横たわる死者たちへと擬態する。シークエンスの反復と、春から夏、秋から冬へと移りゆく時間。円陣の群舞が象徴する、円環的な時間。反復され、循環する時間と、二度と元に戻らない不可逆的な時間が交錯する。舞台を見ているうちに、時間軸が混乱をきたし、過去も遠い未来も渾然一体となった密度に飲み込まれそうになる。ここは遠い未来なのか、地底に埋もれた古層なのか。人間とも獣ともつかない、尾を引く不穏な声は、死者の嘆きなのか、生まれる前の赤ん坊の叫びなのか。
シークエンスの反復、時間の循環性と不可逆性に加えて、本作のもうひとつの特徴が、「声の憑依」と「発話の困難」である。砂連尾と垣尾はマイクを持ってテクストを朗読しようとするが、声は裏返り、かすれ、異物として喉から漏れる。相手の身体を背負って重みに耐えながら震え声で朗読するシーンは、「発話」の行為に負荷がかかり続けていることを文字通り体現する。また、圧巻なのが、舞台上の小舞台に銀色に輝く猫の仮装をした人間が立ち、その周囲をやぐらのように十数人が取り囲んで群舞する、後半のクライマックスだ。うめきとも泣き声ともつかない声で、絞り出すように朗読される小説の一節。よく見ると猫人間は口パクで、その背後から女性が操り人形の操者のように声を吹き込んでいる。召喚された死者の声のうめくような軋みと、憑依された者が声を発する苦痛。砂連尾と垣尾は仮面をつけ、高校生たちとともに盆踊りのような群舞が展開される。祭の狂乱に、「記録者」も身を投じる。(死者の)声の継承、声の憑依、仮面や仮装が象徴する人間ならざるものの到来、盆踊り=死者の魂を再び迎える儀式、共同体性、円環が象徴する時間の循環など、本作のキーワードが凝縮されたシーンである。
声の倍音的な重なりはまた、瀬尾のテクストの「一人称」の語りともリンクする。「私」「僕」は交換可能性に開かれており、その座は特定の固有名によって占められていないのだ。


写真:松見拓也


この他にも、本作には忘れられない優れたシーンが数多くあった(くんずほぐれつしながら十数人が互いの「足裏マッサージ」を行なうシーン、孤独な独楽のように女性が回転し続けるシーンと、突然糸が切れたような中断など)。作り手の必然性を感じる、ものすごい密度の体験だったことは間違いない。「フィクションである(~のフリをする)、舞台上では誰も本当に死なない、ここに死者はいない」という前提と、「生きた身体が今ここにある」という身体的なリアルとの解消不可能な溝、つまり舞台・演劇のダブルバインドを「跳躍(サルト・モルターレ)」して架橋するという困難な試みに、本作は成功していたのではないか。


写真:瀬尾夏美


2017/03/11(土)(高嶋慈)

パロディ、二重の声 日本の1970年代前後左右

会期:2017/02/18~2017/04/16

東京ステーションギャラリー[東京都]

テーマがパロディだけに、一部の作品を除き、撮影自由だった。1960年以降の現代美術と1970年代のサブカルチャー(ビックリハウスや漫画など)の交差を示しつつ、最後のパートはマッド・アマノの著作権侵害をめぐる裁判の顛末を紹介する。個人的には、名古屋で刊行されていた全ページが白紙の雑誌が印象に残った。かつての自由なパロディ表現を見ながら、現在がいかに著作権でがんじがらめになり、また、すぐにネットでパクリと炎上することで、不自由な社会になったのかを思い知る。

2017/03/11(土)(五十嵐太郎)

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マルセル・ブロイヤーの家具 Improvement for good

会期:2017/03/03~2017/05/07

東京国立近代美術館[東京都]

歴史的に有名になった家具を取りあげた、渋い展覧会だ。ワシリーチェアをハイライトとしつつ、ほかの家具や建築デザイン、そして、ブロイヤーの事務所で働いた芦原義信との交流や、彼の日本滞在などを紹介する。それにしても、このスチールパイプを生かしたクラブチェアを23歳で考案していたとは驚きだ。時代のめぐりあわせかもしれないが、いまの大学院生くらいの年齢である。

2017/03/11(土)(五十嵐太郎)

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柳瀬安里 個展「光のない。」

会期:2017/03/07~2017/03/12

KUNST ARZT[京都府]

同ギャラリーで昨年12月に開催された「フクシマ美術」展で見て非常に気になっていた作家、柳瀬安里の初個展。「フクシマ美術」出品作の《線を引く(複雑かつ曖昧な世界と出会うための実践)》は、2015年夏、国会議事堂周辺の安保反対デモに集った群衆の中を歩きながら、道路に「白線を引いていく」パフォーマンスの記録映像である。「線を引く」シンプルな行為が、集団を撹拌し、人々の身体的な反応を引き起こし、擬似的な共同体の中に潜在するさまざまな境界線や差異を表出させてしまう。地震による亀裂という物理的な線、「原発20km圏内」や警察の規制線といった人工的な境界の恣意性、さらに当事者/非当事者の線引き、分断や排除の構造の可視化など、「線(境界線)」が孕む意味の多重性を提示する秀逸な作品だった。
今回の個展で発表された《光のない。》は、その発展形と言える作品。沖縄高江のヘリパッド建設工事のゲート前を、エルフリーデ・イェリネクの戯曲『光のない。』を暗唱しながら歩くパフォーマンスの記録映像である。イェリネクの戯曲は、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故をきっかけに書かれたものだが、「第一ヴァイオリン」と「第二ヴァイオリン」による抽象的なモノローグという形式を採り、具体的な事故の描写はないものの、言葉遊びやメタファーが散りばめられている。また、「わたし/あなた」「わたし/わたしたち」という人称代名詞の多用も特徴だ。このテクストが、沖縄の高江でどのように響くのか。
柳瀬の作品《光のない。》では、現実から安全に切り離された劇場ではなく、現実の出来事が起きている路上で発話することで、抽象的で難解な印象のテクストが極めて生々しい意味を帯びて鮮やかに立ち現れてくる。「戯曲である」、つまり黙読ではなく、生身の身体によって「声」として発話されることで戯曲の言葉は受肉化され、初めて力を持つことが、十二分に示されていた。そこでは「白線」の代わりに、「わたし/あなた/わたしたち」という発話行為が、一人称/二人称、単数/複数の相違によって、風景の中に境界線を次々と浮かび上がらせる。「わたし」「あなた」「わたしたち」とは誰なのか? 指示内容の充填を待つ空白が、「歩行しながら暗唱する」柳瀬の身体的行為によって、さまざまな意味/主体が書き込まれては次の場面で更新され、絶えざる書き替えに晒されていく。
例えば、「わたしにはあなたの声がほとんど聞こえない」という台詞。「わたし(日本)にはあなた(沖縄)の声が聞こえない」と解釈可能だ。あるいは、柳瀬を無視し、無言で人間の壁をつくる機動隊員の姿が画面に映るとき、「わたし(機動隊員)にはあなた(柳瀬)の声が聞こえない」という二重性を帯びた発話となる。さらに、柳瀬の震える生身の声が、拡声器ごしのデモの演説や怒号、行き交う車両の騒音にかき消されるとき、「わたし(鑑賞者)にはあなた(柳瀬)の声が聞こえない」という三重の意味を帯びてそれは聴取されるだろう。また、伴奏をつとめる「第二ヴァイオリン」が「わたしはあなたに寄り添う」と告げるとき、「わたし(沖縄)はあなた(日本)に寄り添う」のか? 「わたし(日本)はあなた(米国)に寄り添う」のか? あるいは、柳瀬の後を無言で付き添う「わたし(機動隊員)はあなた(柳瀬)に寄り添う」のか? また、「異物はいつもわたしたちのなかにあった」という別の台詞がある。「わたしたち(日本)の中の異物(沖縄)」なのか、「わたしたち(沖縄)の中の異物(基地)」なのか?
ここでは、「暗唱しながら路上を歩く」柳瀬の身体的行為によって、戯曲の言葉と現実の風景が複数の層でリンクし、相互浸透し合うことで、解釈は常に多重的に揺れ動き、ひとつの位置に定位できない。さまよい歩く柳瀬の声は、イェリネクのテクストの多義性の発露を引き受けながら、いくつもの主体の間を憑依し続けるのであり、そこで露わになるのは、「わたし」という主体の固定の不可能性、「日本」という主体の曖昧さや不安定さである。そして「わたし/あなた」の決定不可能性は、分断と排除の論理が支配するあらゆる周縁化された場所/主体をめぐる名前と交換可能である。
このように本作は、書かれた戯曲のテクストが「声」によって受肉化され、現実の音や風景と物理的に「接触」することで、テクストに胚胎する意味をクリアに浮上/拡張させるとともに、現実の様々なレイヤーが複雑に揺れ動く界面を鋭く照射する。しかし一方で、受肉化された「声」は、現実(が立てる音)からの干渉を受けることで、ひとつの支配的な完全な声としては響かない。であるならば、対峙し耳をそばだてる者には、より慎重で繊細な聴取の態度が要請されている。



柳瀬安里《光のない。》2016-17 映像

2017/03/12(日)(高嶋慈)

Chim↑Pom展「The other side」

会期:2017/02/18~2017/04/09

無人島プロダクション[東京都]

清澄白河で強烈だったのは、Chim↑Pom「The other side」展@無人島プロダクションである。2014年に開始したアメリカとメキシコの国境沿いのプロジェクトだが、いまのトランプ政権の振る舞いをあらかじめ批判するような作品だ。ヨーゼフ・ボイスを下敷きとしたコヨーテ、穴、ツリーハウス、自由の墓などを紹介していたが、いまや政治主導で増加するアール・ブリュットからは絶対に生まれない批評的な表現である。

2017/03/12(日)(五十嵐太郎)

2017年04月15日号の
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