2022年12月01日号
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artscapeレビュー

2012年02月15日号のレビュー/プレビュー

3331 アンデパンダン・スカラシップ展 vol.2

会期:2012/01/07~2012/01/29

アーツ千代田3331 1Fメインギャラリー[東京都]

オープニングへ。五十嵐による個人賞を出した『へルター・スケルター』改変の山田はるかは、男装の写真など、得意の身体/ジェンダー系の新作を、短い準備期間にもかかわらず制作していた(展覧会が繰り上げで早くなった)。いろいろな表現形式をとっている。これに『ヘルター・スケルター』で見せたメディアそのものをハッキングするような強度があれば、言うことなしだ。もうひとつの個人賞の候補だった水戸部七絵の絵画は、映画や映像をもとにしたものだが、なかなかの迫力だった。

写真=山田はるか(上)、水戸部七絵(下)

2012/01/07(土)(五十嵐太郎)

ジャン・ヌーヴェル《電通本社ビル》/ジョン・ジャーディ《汐留アネックスビル「カレッタ汐留」》

[東京都]

竣工:2002年11月

久しぶりに汐留の電通ビルを見学した。ヨーロッパのよき趣味の前衛、ジャン・ヌーヴェル設計のオフィスビルと、アメリカの大衆的な資本主義建築家、ジョン・ジャーディによる商業施設カレッタ汐留を組み合わせるところが、実は日本的かもしれない。あちこちにパブリックアートを設置しているが、3.11の原発事故以降の節電もあってか、ジュリアン・オピーや蔡国強など、電気仕掛けの作品は、ことごとく止まっていた。やはり、こうした作品は、長期の稼働維持が大変である。結局、モノだけで成立するアートの方が超長期的には持続するように思う。

写真=噴水が止まった「カレッタ汐留」

2012/01/08(日)(五十嵐太郎)

細江英公 写真展 第一期 鎌鼬

会期:2012/01/06~2012/01/29

BLD GALLERY[東京都]

これから5月にかけて開催される、BLD GALLERYでの細江英公の連続写真展の第一弾である。以後、「シモン 私風景」「おとこと女+抱擁+ルナ・ロッサ」「大野一雄+ロダン」「知人たちの肖像」「薔薇刑」と続く。
あらためて見ると、暗黒舞踏の創始者土方巽をモデルとするこの「鎌鼬」のシリーズが、細江にとって特別な作品であったことがわかる。細江自身が30歳代半ばで、肉体的にも精神的にも最もエスカレートしていた時期であり、1960年代の疾風怒濤的な文化状況がその高揚感に拍車をかけていた。1968年3月に、このシリーズが「とてつもなく悲劇的な喜劇」というタイトルで初めてニコンサロンで展示されたとき、細江はその挨拶文に「絶対演出による日本の舞踏家・天才〈土方巽〉出演の、もっとも充血したドキュメンタリー」と書き記している。「絶対演出による」というのは、言うまでもなく土門拳が「リアリズム写真」を定義した「絶対非演出の絶対スナップ」という言葉を踏まえたものだ。つまり、一世代上の土門拳の方法論を、演劇的な手法によって解体・顛倒してしまうことがもくろまれているわけだ。それは、土方のたぐいまれな肉体とパフォーマンスの助けを借りて見事に成就している。
今回の展示には、そのニコンサロンの写真展のときの作品パネルがそのまま飾られていた。2000年に松濤美術館で開催された「細江英公の写真 1950-2000」にも同じパネルが出品されていたのだが、そのときに比べると画面の端の部分に印画紙の銀が浮き出して、染みのように広がっている面積がより大きくなっている。つまり写真自体が生成変化しているわけで、むしろそのことによって、土方の故郷でもある秋田県雄勝郡羽後町で繰り広げられるパフォーマンスが、凄みと生々しさを増しているように感じられた。

2012/01/09(月)(飯沢耕太郎)

three展

会期:2012/01/06~2012/01/29

資生堂ギャラリー[東京都]

若手作家の支援を目的とする「アートエッグ」シリーズの第1弾は、その名のとおり3人組のユニット「three」。作品はふたつあり、ひとつは、メインギャラリーに天井から糸で約7千個のキャンディやグミを吊るし、全体で家の輪郭をかたちづくったインスタレーション。観客は1個ずつとって食べることができ、包み紙は1カ所に集められる。会期が進むにつれ家のかたちは下端から徐々に崩れていき、反対に包み紙(ゴミ)の山が大きくなっていく趣向だ。もうひとつは、大きく波打たせた壁一面に約6万5千個の醤油差しをとりつけ、そこに都市風景や群衆の映像を投影したもの。魚型の醤油差しが1個1個ピクセルと化しているのが笑える。どちらもポップな日常品を多数用いて現代社会のおかしさを突いているが、それだけでなく、アートオタクが喜びそうな謎解きも隠している。前者は、キャンディの山から観客に1個ずつとってもらうフェリックス・ゴンザレス・トレスのインスタレーションを逆転させたものだし、後者の波打つ壁は国立新美術館のファサードを想起させずにはおかない。ただ、家のかたちがわかりづらく、波打つ壁も完成度が低かったのが惜しまれる。

2012/01/13(金)(村田真)

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タカオカ邦彦「icons─時代の肖像」

会期:2012/01/14~2012/03/25

町田市民文学館ことばらんど[東京都]

「顔」は写真の被写体として最も強い喚起力を備えたものの一つだ。「顔」の写真はすぐに眼を惹き付けるし、そこにさまざまな意味を引き寄せ、まつわりつかせる。写真家にとっては、魅力的だが扱いづらい被写体とも言えるだろう。とりわけ「作家の顔」は、そのなかでも特別な吸引力を備えている。作家は、彼らの本の読者が、それを読むことによってある意味勝手に付与してしまったイメージを引き受けざるをえなくなってくる。写真に撮られるときも、そのイメージを意識しないわけにはいかないだろう。そこに微妙な自意識のドラマが発生し、それが当然写真にも写り込んでくるのだ。
タカオカ邦彦は、ライフワークとして30年以上にわたって「作家の顔」を撮影し続けてきた。今回町田市民文学館ことばらんどで開催された「icons─時代の肖像」展は、そのタカオカの小説家、詩人、作詞家、脚本家など文筆家たちのポートレート90点余りを展示したものだ。全体は「肖像-portrait」「心象-image」「書斎・アトリエ-studio」の三部構成になっている。「肖像」のパートはモノクロームの顔を中心としたクローズアップ、「心象」のパートは普段着の姿、「書斎・アトリエ」のパートは仕事場での作家たちの表情を主にカラー写真で追っている。「作家の顔」というと土門拳や林忠彦(タカオカの師匠でもある)の重厚なポートレートを想像しがちだが、タカオカの作品はオーソドックスではあるがあまり威圧感がない。どちらかというと親しみやすい、等身大の作家像の構築がめざされているということだろう。
ちなみに、僕自身も1990年代半ばにタカオカに撮影してもらったことがあり、その写真も会場に展示してあった。こういう経験はめったにないことだが、自分の顔に展覧会で向き合うのは正直あまり気持ちのいいことではない。自意識のドラマが生々しく露呈している様を、本人が見るということには、相当に息苦しい違和感、圧迫感がともなうことがよくわかった。

2012/01/13(金)(飯沢耕太郎)

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2012年02月15日号の
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