artscapeレビュー
2016年02月15日号のレビュー/プレビュー
幹の会+リリック プロデュース公演「王女メディア」
会期:2016/01/09~2016/01/16
東京グローブ座[東京都]
ギリシア悲劇「王女メディア」@グローブ座。歌舞伎のように男がすべての女性を演じる。主役をつとめる平幹二朗の年齢を考えると、怪演と言うべき迫力だ。ただ、脚本は現代向けに少し変えてよかったと思う。床を使い、上のフロアからも楽しめる演出は、田尾下哲ならではである。しかし、残念ながら、劇場の3階は見切り席だった。アメリカのミュージカルのように、こうした座席は格安の値段にすべきだろう。
2016/01/09(土)(五十嵐太郎)
小森はるか+瀬尾夏美 巡回展「波のした、土のうえ」in神戸
会期:2016/01/09~2016/01/31
デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)[兵庫県]
映像作家の小森はるかと画家・作家の瀬尾夏美は、震災を契機として2011年4月に東北の沿岸部を訪れ、翌年春には岩手県の陸前高田市に移り住み、その土地で暮らし、人々の声に耳を傾けながら制作を続けてきた。展示会場には、ドローイングやペインティング/写真/テクストが緩やかに関連し合うように配置され、伸びやかな線や鮮やかな色彩で描かれたドローイングやペインティングが視線を方向づけ、傍らに添えられた言葉が、一見シンプルで明るいそれらに重層性を与える。日付が記されたテクストには、震災後の陸前高田に暮らす人々から聞き取った言葉や自分自身の内省的な言葉が記され、住民やこの土地との距離を測りながら、誠実に言葉が紡がれている。巨大なさみしさについて、忘れることと記憶について、表現者としての自覚や葛藤について、「新しい地面」をつくる復興工事によって見えなくなってしまうものについて。
さまざまな角度から陸前高田の風景を描く瀬尾のペインティングは、フラットな色面やストロークで簡略化された構成の中に、鮮やかな色彩が目を引く。緑やブルーの中に、黄色、赤、オレンジ、ピンク、紫……。山並みに囲まれ、建物のなくなった平らな土地。「こんな大変なことがあって辛い時なのに、普段は気にもとめていなかった日々の情景のあれこれをかえって思い出す」という、ある女性の言葉がある。「自分たちには馴染みのない町、何もかも失ってしまった町が、かつての日常の記憶が語られることで鮮やかに色づいて見えた」と瀬尾は記す。また、「切り花を供えても枯れてしまうのが悲しいから、代わりに花畑を作りたい。花とともにここにもう一度、色を与えたい」という女性の活動は、小森のドキュメンタリーにも丁寧に映しとられている。瀬尾のペインティングの鮮やかな色は、語られた記憶が宿す色彩、実際に風景を彩った花畑、その双方の彩りでもある。だが、ドキュメンタリーに記録されているように、地元の女性たちやボランティアの若者の協力によって出現した花畑は、土地の再生事業により埋め立てられることが決まり、花束として受け取った人たちの、再び記憶の中だけの存在となる。
津波で波の下に失われたもの、更地になったむき出しの土地と、山を切り崩した土で市街地をかさ上げする「復興工事」。その埋め立てによる土地の更新は、もうひとつの喪失を意味する。自然の不可抗力による、抗うことのできない「喪失」と、計画的な事業による人為的な「喪失」。「波のした、土のうえ」という詩情さえ漂うタイトルは、その二つの「喪失」の狭間の時間にこの土地で起こった出来事──色とりどりの花畑の出現、改めて言葉にして語られた記憶、生活と結びついた、その手触りや色合い──によって、一時的だが色づきを取り戻した時間をいうのだろう。だがそれもまた、復興事業の進展や離散によって遠からず失われていくことがわかっている。アーティストにできることがあるならば、そのままでは失われていく土地の声、人々の声に寄り添い記録として残すことではないだろうか。瀬尾と小森は、心象風景の絵画化と客観的なドキュメンタリーという、対照的な方法論によって、それぞれのやり方でその困難な試みを引き受けようとしている。
彼女たちの試みはまた、(それ自体は不可視な)他者の記憶を内在させたものとして目の前の風景を捉えようとすること、その豊かさや複雑さへと想像力を抱いて風景を眼差すことを要請している。それは、新たな風景論の希望としての切り口を開いている。
2016/01/10(日)(高嶋慈)
伊澤絵里奈「そんな気がした」
会期:2016/01/09~2016/01/31
SUNDAY[東京都]
伊澤絵里奈は2013年の第9回「1_WALL」展のファイナリスト、同じ年に東京工芸大学大学院を修了している。その時の作品《うつろに、溶け込んで》は、「私に最も近い存在」である「弟」を中心に撮影したスナップショットのシリーズだったが、その後「彼」ができたことで、被写体の幅が広がった。今回の東京・三宿のカフェ・レストラン「SUNDAY」のギャラリースペースでの初個展では、「弟」と「彼」の写真をあえて「混ぜこぜ」にするようにして展示していた。
基本的には、90年代以降の日本の女性写真家たちのお家芸とでもいうべき、身近な他者にカメラを向けた、軽やかな「プライヴェート・フォト」といえる。だが、被写体との距離をできる限り縮め、感情移入しつつ撮影していた90年代の女性写真家たちと比較すると、どこか違いが出てきているように感じる。「弟」も「彼」も。どちらかといえば突き放した素っ気ない撮り方であり、身体の部分(手、脚、首筋など)や身振りの細部を、じっと観察しているように見えてくるのだ。自分とは異質の「近くにいる奇妙な生きもの」の観察日記といえるかもしれない。この観察眼がもう少し研ぎ澄まされてくると、なかなかユニークな作品に育っていきそうだ。
今回の展示は、写真編集者・ライターの山内宏泰の企画による「provoke page.3」として開催された。新進写真家にスポットを当てて毎月開催されている連続展で、これまで天野祐子、 田菜月が展示し、次回は山崎雄策展が予定されている。場所がややわかりにくいのが難だが、ゆったりとしたいい展示スペースなので、長く続くことを期待したい。
2016/01/10(日)(飯沢耕太郎)
クリード チャンプを継ぐ男
新星監督による映画『クリード』を見る。一度終わったはずのロッキーのシリーズを再稼動させる巧みな設定と展開、そしてワンシーンによる試合の撮影などがお見事だ。『ロッキー1』の反復もあるが、シリーズの40年に及ぶ歴史があるからこそ、物語世界の実在感が、ぐっと増し、メタ的にもレガシーを継ぐ傑作になっている。パズルのように構築された『スターウォーズ7』に対し、不意打ちのように現われた新機軸のリブートだ。
2016/01/10(日)(五十嵐太郎)
村上隆のOHANA-OHANA-OHANA
会期:2016/01/01~2016/02/14
六本木ヒルズA/Dギャラリー[東京都]
森美術館の大個展に合わせ、お花をモチーフにした立体作品やポスターを展示販売。正面には直径2メートルほどの球体の表面をお花で覆った《Gigantic Plush Flower》が鎮座し、奥には1人掛けから3人掛けまでお花模様のソファが並んでいる。ソファはともかく、役に立たない巨大な球体なんかだれがなんのために買うんだろう? 球体は大中小あるそうだが、でかければでかいほど邪魔になるし、維持管理も大変になる。だがそれゆえに金持ちほどでかいほうを買いたがるのかもしれない。これがアート経済学のおもしろさだ。ポスターのほうは「五百羅漢図」から派生したシリーズや、無数のドクロを背景にざっくり円を描いた「円相」シリーズなどがあって、とくに「円相」のポスターはちょっとほしくなる。
2016/01/11(月)(村田真)