artscapeレビュー

2009年11月15日号のレビュー/プレビュー

大畑いくの×スズキコージのらくがき展

会期:2009/10/13~2009/10/25

SELF-SOアートギャラリー[京都府]

絵本の原画を初めて見た時に思い知ったスズキコージさんの魅力。画面からなにかが勢いよく飛び出てきそうなダイナミックな筆跡と色彩なのに、細やかな作業の後もうかがえる。古い町並みのなかにある京都らしい佇まいの町家空間が会場。高校時代のドローイングなども展示されていた。今展で魅了されたのが大畑いくのさんの作品世界。子どもの頃に赤、青、黄の混色でピンクや紫、緑色などをつくろうとして、結果、言葉で表現し難い色ができててしまった時のような、味わい深い色彩と、モチーフのキャラクターの存在感も強烈。その独特の世界観が魅力的で印象深く、つい絵本を衝動買い。

2009/10/24(土)(酒井千穂)

高松伸《国立劇場おきなわ》

[沖縄県]

竣工:2003年

沖縄伝統芸能の保存と育成のための国立劇場。上部にいくにつれてせり出した、PCパネルによる菱形格子状の外壁は、沖縄の伝統住宅の壁から引用されているという。この外観の存在感は圧倒的だった。土着建築言語が翻案され、抽象性と具象性が同居するような不思議な印象を受けた。沖縄には現代建築がいくつもあるが、沖縄の人に聞いてみると、沖縄的なるものを異なって解釈したうえで強調されている場合があるという。その場合は現地の人が見て沖縄的には決して見えない。オリエンタリズムの視線が「日本」を誤って強調してしまう場合に似ているのだろう。しかし、高松氏の建築は、土着建築言語の土着的な強調は行なわない。むしろ、現代建築の視点からの解釈を行なっている。また、内部に入るとミースの装飾的H鋼、テラーニ的に直交する梁が強調された軽やかな天井など、近代建築言語へのオマージュ(といえそうなもの)も散見された。土着建築言語も近代建築言語も、いわば他者の言語であるが、それらがまったく違和感なくひとつの建築として統合的に昇華していたように感じられた。

2009/10/26(月)(松田達)

金城信吉《風樹館》

[沖縄県]

竣工:1985年

金城信吉氏(1934-1984)は、沖縄を代表する建築家である。風樹館は金城氏の最後の作品であり、琉球大学校内に建てられた資料館。丸みを帯びた煉瓦張りの壁に近づくと、荒々しい割肌が見えてくる。割肌といっても、ここまで荒いものはなかなか見ない。ゆるくうねった外壁は、グスク(城)に触発されたものであろう。後にいくつかのグスクを見て、石垣がゆるやかな曲面で構成されていることを知った。エントランスの立体的な窪みは印象的で、日本では滅多に見ない建築言語であると思ったが、イスラム建築のイーワーンと呼ばれる半屋外空間に近い。金城は旅行好きで、東南アジアを多く旅行したというから、マレーシアかインドネシア辺りで見かけているのだろうか。エントランスホールでは「ひんぷん」と呼ばれる沖縄の民家の目隠しを用いているなど、琉球建築のエレメントが随所に用いられており、最初は白井晟一を思い出したのであるが、建物をめぐるうち、金城氏の中に沖縄の建築が血肉化されているのだと知った。金城氏については、この建築を見るまでほとんど知らなかったのであるが、沖縄の現代建築の第一世代であるらしい(入江徹氏談)。その後が真喜志好一ら、そして琉球大学建設工学科の初期に教鞭を執った仙田満の影響を受けた建築家が現われてきているという。

2009/10/27(火)(松田達)

東京ミッドタウン・アワード2009

会期:2009/10/23~2009/11/03

プラザB1Fメトロアベニュー(東京ミッドタウン)[東京都]

デザインとアートの2部門のコンペで、受賞作品を通路のショーウィンドーのなかに展示している。デザインのほうは「日本の新しい手みやげ」をテーマに、1,322点の応募作品中9点が選ばれた。たとえば、ビールを注げば泡が冠雪に見える裾広がりの《富士山グラス》、気軽に料理を盛りつけられる組み立て式の紙皿《笹船DISH》、羊羹がちょんまげのかたちをしている《チョンマゲ羊羹》など、ウィットに富んだアイデアが多い。ただ昔の「王様のアイデア」を思い出してしまうが。355点の応募作品から4点が選ばれたアートは、彫刻、映像、LEDの光と表現も多彩だったが、いまひとつ決め手に欠けるような印象。村田真賞は、自家製の陶器をはじめ書画骨董をめいっぱい並べた福本歩かな。

2009/10/27(火)(村田真)

多摩川で/多摩川から、アートする

会期:2009/09/19~2009/11/03

府中市美術館[東京都]

河口龍夫と同じく、学生時代に『美術手帖』かなにかの図版で見た高松次郎の《石と数字》と、山中信夫の《川を写したフィルムを川に映す》がなつかしい。前者は河原の石に数字を振っていく作品、後者は文字どおり川面を写したフィルムをもういちど川面に映写するイベントで、どちらも無意味な反復や自己言及を繰り返す点で、1970年前後の閉塞的な時代状況を反映している。こうした行為がなぜ隅田川や荒川ではなく、新興の多摩川で行なわれたかといえば、河原が広くて自然が残されていたからということに加え、当時は藝大よりずっと先端的だった多摩美が二子玉川にあり、また近辺にスタジオを構える作家たちが多かったからだろう。

2009/10/27(火)(村田真)

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