artscapeレビュー
2010年10月15日号のレビュー/プレビュー
大山顕『高架下建築』
発行所:洋泉社
発行日:2009年3月18日
文句なく面白い。ウェブサイト「住宅都市整理公団」の総裁であり、団地愛好家、工場愛好家として知られる大山顕による写真集。大阪、神戸、首都圏における鉄道高架下につくられた建築群が集められ、その見方や独自の分析も施されている。いわゆる「建築」ではない、「建物」の振る舞いの面白さを見るという点では、アトリエ・ワンによる『メイド・イン・トーキョー』が思い浮かぶ。しかし、アトリエ・ワンが「建物」のさまざまな使われ方の面白さを見ることで、ビルディング・タイプの新しい組み合わせを見出していくのに対し、大山は「高架下建築」というひとつのビルディング・タイプにこだわる。観察術という意味では、今和次郎の考現学や藤森照信らの路上観察学にも通じるところがあるだろう。しかし、路上観察がその対象を観察によって見つけるのに対して、大山の場合は先に観察すべき対象がはっきりしている。もっとも大山のスタンスをよく示す言葉は「萌え」だろう。これまでも、団地、工場、ジャンクションといったひとつのビルディング・タイプに「萌え」てきた。東浩紀的に言えば、大山は「高架下建築言語」ともいうべき「データベース」を見出しながら、その組み合わせが織り成す「小さな物語」としての高架下風景を提示し、そこに「萌え」ている「オタク」という意味で、極めて「ポストモダン」的な写真集なのである。
2010/09/15(水)(松田達)
中比良真子 展 Stars on the ground
会期:2010/09/14~2010/09/26
neutron kyoto[京都府]
夜の街中の風景を俯瞰で描いたモノトーンの作品が並んでいた。中比良の過去の作品ですぐに思い浮かべるのは、水面に周辺の風景が映り込む様子を描いたものや、余白をあえて大胆に取り入れた風景だったので、今回、シンプルに描かれた作品は意外だったのだが、聞くと夜景を描いたシリーズは昨年から制作、発表されていたのだという。マンションや鉄道、家々に灯る光がぽつぽつと点在する風景の一連の絵画は、一見、さりげなさすぎるほど地味で平凡なイメージなのだが、夜空の星になぞらえたタイトルを見ながらじっくりと画面を見ていくと、その丁寧な観察と細かな描写に気がついて、想像がじわじわと膨らんでくる。建物に灯る小さな白い光の粒がそれぞれのドラマを秘めているように見えてくるのだが、それは中比良の細やかな感性にそっと近づくような気分でもあった。奇をてらわない等身大の作家の感覚や言葉のイメージが快く、個人的には以前の作品よりもむしろ中比良らしい印象もあり、次回が楽しみになった。
2010/09/15(水)(酒井千穂)
田村彰英「AFTERNOON 午後」
会期:2010/09/03~2010/10/30
gallery bauhaus[東京都]
上野修が本展に寄せたメッセージに次のように書いている。「かつて、日本現代写真における天才といえば、たったひとりの写真家を指したものだった。その写真家とは田村彰英である。写真でしかできない表現、写真としての写真が模索された1970年代、情念的にではなく、観念的にでもなく、まったく違ったアプローチで、いきなり直感的にそれを浮かび上がらせたのが田村だった」。
この上野の田村評には全面的に共感する。だが、1990年代以降に写真にかかわりはじめた若い観客にはぴんとこないところがあるのではないだろうか。今回の「AFTERNOON 午後」展には、彼が70年代初頭に『美術手帖』の扉ページに掲載した、6×6判カメラによるモノクローム作品が多数含まれている。これらの作品を同時代的に最初に目にした時の衝撃の大きさを伝えるのは、かなり難しいだろう。つまり彼が提示した、日本的な情感やドキュメンタリ─・フォトの臭みからは完全に一線を画した、光と影とが織り成す無国籍かつ断片的な情景は、その後の日本の写真家たちの作品の定石になってしまったからだ。やや無理な比較をしてしまえば、田村の登場は90年代後半に『生きている』(1997年)でデビューした佐内正史と似ている。佐内もまた「天才」としかいいようのない嗅覚で、バブル崩壊以後の日本社会の希薄な気分を掬いとっていったのだが、田村の写真に写り込んでいるものこそ、70~80年代の空気感そのものなのだ。
それから30年以上が過ぎて、あらためて見ることができた「AFTERNOON 午後」の写真群は、やはり僕にとって充分に魅力的だった。当時よりもさらに生々しさが削ぎ落とされ、まさに「写真でしかできない」世界の眺めが定着されている。それとともに、現像ムラ、画面の端の黒枠、引伸しの時に入り込んできたゴミなどがかなり無頓着に扱われているのが、妙に格好よく決まっている。ロック世代の、汚れたジーンスを颯爽とはきこなすような感覚が、写真にもあらわれている気がするのだ。
2010/09/16(木)(飯沢耕太郎)
東京フォト2010
会期:2010/09/17~2010/09/20
昨年に続き第二回目の「東京フォト」が開催された。参加ギャラリーが30を超し、写真作品に特化したアートフェアという位置づけも、かなり明確になってきたようだ。観客もかなり入っているし、売り上げも全体としてみれば伸びている。2年目としてはまず成功といえるのではないだろうか。
写真作品をコンスタントに購入するコレクターの絶対数を増やすというのは、アート・ディーラーの永遠の課題のひとつだろう。日本の場合、1970年代からずっとそのことが模索されてきたにもかかわらず、最近までなかなか厳しい状況だった。それでも、今回の「東京フォト」を見ていると、写真作品のマーケットが広く認知されつつあることを感じる。ギャラリーやディーラーの側も、その動きに応えるように、作品をあまり大きくない、壁に掛けるのに適当なサイズに絞り込み、内容的にもあまり過激なものは避けるようになっている。顧客が安心して購入できる、評価の定まったマスター・ピースを中心に出品しているギャラリーも多かった。むろんそれは諸刃の剣で、当たり障りのない穏当な作品が整然と並んでいる様子を見ると、あまり面白味は感じない。昨年と比較しても、出品作品の均質化が急速に進みつつあるのがちょっと気がかりだ。
そんななかで、西野壮平の大画面のコラージュ作品をずらりと並べたエモンフォトギャラリー、イランの女性作家、ラハ・ラスティファードとヌーシャ・タヴァコリアンという新鮮なラインナップを選んだ東京画廊+BTAP、新進作家の春木麻衣子の作品だけで勝負をかけたTARO NASUなどの果敢な展示が目立っていた。「売れる」ことはむろん大事だが、こういうアートフェアはギャラリーの基本姿勢を推しはかる指標になることも否定できない。
2010/09/17(金)(飯沢耕太郎)
ドガ展
会期:2010/09/18~2010/12/31
横浜美術館[東京都]
なんでいま横浜で「ドガ展」なのかわからないが、理由なんかどうでもいい。とにかく日本では21年ぶりにドガ作品が大量に見られることが重要なのだ。今回は《エトワール》《バレエの授業》《浴盤(湯浴みする女)》といったオルセー美術館所蔵の有名作品も来ているが、描きかけや描き損じ、それに素描や版画も少なくない。でもルーベンス作品では下図のほうが完成作より貴重なのにも似て、そうした完成度の低い作品にこそドガの素顔とその卓越した技量を読み取ることができるのだ。もう《エトワール》なんて見飽きたぜ。それより初期の衣紋の習作や競馬風景、盛り場の女を描いた版画、晩年の水浴のデッサンのほうに新しい発見がある。
2010/09/17(金)(村田真)