artscapeレビュー

2011年02月15日号のレビュー/プレビュー

スナップショットの魅力

会期:2010/12/11~2011/02/06

東京都写真美術館 3F展示室[東京都]

2011年の仕事始めということで、まず東京都写真美術館に足を運ぶことにした。スナップショットをテーマにした収蔵作品展(一部に個人蔵を含む)と新進作家展が、「かがやきの瞬間」という共通のコンセプトのもとに開催されている。昨年中に行こうと思っていたが、ゆっくり見る余裕がなかったのでそのまま新年まで持ち越していた展示だ。
マーティン・ムンカッチ、ジャック=アンリ・ラルテーィグ、木村伊兵衛らのクラシックな作品から、鷹野隆大やザ・サートリアリストのような現代写真家の作品まで、「吹き抜ける風」「こどもの心」「正直さ」という3部構成で見せるのが「スナップショットの魅力」展。こうして名作ぞろいの展示をじっくり眺めていると、スナップショットがずっと写真という媒体の持つ表現可能性の中心に位置づけられてきた理由がよくわかる。たしかに、現実世界から思っても見なかった新鮮な眺めを切り出してくるスナップショットには、他にかえ難い「魅力」が備わっているのだ。ウォーカー・エヴァンズが1938~41年にニューヨークの地下鉄の乗客をオーバーコートの内側に隠したカメラで撮影した「サブウェイ・ポートレート」シリーズなどを見ていると、見る者の視線が写真に貼り付き、画像の細部へ細部へと引き込まれていくような気がしてくる。目を捉えて離さないその吸引力には、どこかエクスタシーに誘うような魅惑が備わっているのではないだろうか。
だが、何といっても今回の展示の最大の収穫は、ポール・フスコの「ロバート・F・ケネディの葬送列車」のシリーズ25点を、まとめて見ることができたことだろう。1968年に暗殺された「RFK」の棺を乗せた葬送列車は、1968年6月5日にニューヨークのペン・ステーションからワシントンDCまで8時間かけて走った。『ルック』誌の仕事をしていたフスコは、沿線で列車を見送る人々の姿をその車窓から撮影し続ける。だが2,000カットにも及ぶそれらの写真は結局雑誌には掲載されず、2000年に写真集にまとめられるまでは日の目を見なかった。黒人、白人、修道女、農夫、軍服を身に着けた在郷軍人からヒッピーのような若者まで、そこに写っている人々はそのまま当時のアメリカ社会の縮図であり、その表情や身振りを眺めているだけでさまざまな思いが湧き上がってくる。偶発的な要素が強いスナップショットが、時に雄弁な時代の証言者にもなりうることを、まざまざと示してくれる作品だ。

2011/01/06(木)(飯沢耕太郎)

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ニュー・スナップショット

会期:2010/12/11~2011/02/06

東京都写真美術館 2F展示室[東京都]

「日本の新進作家展 vol.9」として「スナップショットの魅力」展と併催されているのが「ニュー・スナップショット」展。出品作家は、池田宏彦、小畑雄嗣、白井里美、中村ハルコ、山城知佳子、結城臣雄の6人である。
中村ハルコの作品がこういうかたちで紹介されることが、まずとてもよかったと思う。彼女は2000年に自らの出産体験に題材を得た「海からの贈り物」で写真新世紀のグランプリを受賞し、将来を嘱望されていた。ところが2005年に43歳という若さで膵臓がんのため夭折する。今回展示された「光の音」は、イタリア・トスカーナ地方で農業を営む一家を何度となく足を運んで撮影し続けたシリーズで、生前にはきちんとしたかたちで発表されることがなかったものだ。その心の昂りをそのまま刻みつけた、弾むようなスナップショットを見ていると、もっとこの先を見てみたかったという思いにとらえられる。それはそれとして、土地と人とのかかわりを感情や生命力の流れとして見つめ返す「女性形」のドキュメンタリー写真の可能性を強く示唆する作品といえるだろう。
だが今回の展覧会でいえば、後半のパートに展示されていた山城知佳子、白井里美、池田宏彦の作品の方が「ニュー・スナップショット」という趣旨にふさわしいといえそうだ。彼らの仕事は、それぞれ沖縄、ニューヨーク、イスラエルのネゲヴ砂漠を舞台に、パフォーマンスや演出的な要素を強く打ち出している。土門拳は1950年代に「リアリズム写真」を提唱し、「絶対非演出の絶対スナップ」というテーゼを主張したが、そこから時代は大きく隔たってしまったということだろう。もはやスナップショットとパフォーマンスは相容れないものではなく、時には見分けがつかないほどに入り混じっていることさえある。だが、演出過剰な作品が面白いかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。どこか「見えざる神の手」に身を委ねるようなところもあっていいはずで、写真家たちにはそのあたりのバランス感覚が求められているのではないだろうか。

2011/01/06(木)(飯沢耕太郎)

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中藤毅彦「Night Crawler 1995 2010」

会期:2011/01/07~2011/01/30

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

中藤毅彦の実質的なデビュー写真展といえる「Night Crawler──虚構の都市への彷徨」は、1995年に新宿・コニカプラザで開催された。僕はその展示を見ている。中藤が東京ビジュアルアーツで森山大道に師事していたのは知っていたから、やはりその影響が強すぎるのではないかと思った記憶がある。だが、彼が他のエピゴーネンたちと違っていたのは、森山の都市のスナップショットの仕事を単純に模倣するのではなく、さらにそれを過激に、より大げさとさえいえるような身振りで展開していこうという明確な意欲を持っていたことだろう。その後「虚構の都市」東京を這い回る作業は一時中断され、彼は東欧諸国、ロシア、キューバ、上海などに撮影の範囲を拡大していった。そして2010年になってひさしぶりに東京を撮影し直した写真群に、旧作を併せて展示したのが今回の「Night Crawler 1995 2010」展である。
コントラストの強いモノクロームの写真は、ほとんど変わりがないように見える。だがよく見ると、1995年と2010年の作品では、明らかに画面の成り立ちが違ってきているのがわかる。旧作は中心となる被写体を鷲掴みにしてくるような力業でシンプルな画面を構築していた。だが新作になると、都市を階層(レイヤー)として捉えるような視点があらわれてくる。画面はより多層化し、都市の波動に同調して網目状に伸び広がっていく視線の動きを感じとることができる。その変化は、端的に、使用機材がアナログカメラからデジタルカメラへと移行したことによるものといえそうだ。一眼レフカメラでハンターのように狙いを定める身構え方が、デジカメのモニターをやや目から離して覗き込む姿勢へと変化した。そのことによって、明らかに画面に弛みや震えが生じてきている。しかし、それをあまりネガティブに考えることはないのではないか。2010年版の「Night Crawler」の方が、東京という都市が発するノイズの総体をより包括的に捉えることができるようになっていると思えるからだ。これから先、もしこのシリーズがさらに撮り続けられるとしたら、どんなふうに変わっていくのかが楽しみでもある。

2011/01/07(金)(飯沢耕太郎)

「日本画」の前衛

会期:2011/01/08~2011/02/13

東京国立近代美術館[東京都]

第2次大戦をはさんだ1938~49年の実験的な日本画を集めたもの。大ざっぱな印象としては、比較するのも大人げない、同時代の「前衛絵画」であるアメリカ抽象表現主義と比べれば、ただ表面に描くイメージが抽象またはシュルレアリスムに傾いて新奇に更新されたというだけで、絵画(日本画)のシステムや構造自体を揺るがし、再編するほどの根本的変革ではなかったということだ。あるいは十歩譲って、日本画にとっては根本的な変革だったとしても、美術全体から見ればローカルな台風にすぎなかったと。たしかに余白を多くとって色彩構成した山岡良文の《シュパンヌンク》や、画面に深紅の絵具を散らした船田玉樹の《花の夕》、画面中心部がねじれてこんがらがったような岩橋英遠の《都無ぢ》などは、「日本画」としては画期的だったかもしれないが、比較のために並べられた村井正誠や靉光らの「洋画」より新しいとはいえない。ましてやカンディンスキーやポロックと比べたら一目瞭然……。

2011/01/07(金)(村田真)

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喜多村みか/渡邊有紀「TWO SIGHT PAST」

会期:2011/01/07~2011/02/21

GALLERY at lammfromm[東京都]

喜多村みかと渡邊有紀は、東京工芸大学在学中の9年前から、互いにポートレートを撮り合うという「TWO SIGHT PAST」のプロジェクトを進めている。2006年には「写真新世紀」で優秀賞(飯沢耕太郎選)を受賞したが、それから各自の仕事が忙しくなったこともあって、しばらくこのシリーズは休止状態にあった。ところが、2009年にハンガリー・ブダペストのギャラリーで二人の展示があったのをきっかけにして、旅先でふたたびポートレートが撮影された。それをまとめたのが今回の二人展である。
二人の写真家が長期にわたってポートレートを撮影し合うという作品は、僕が知る限りナン・ゴールディンとデイヴィッド・アームストロングの『A Double Life』(1994)を唯一の例外として、ほとんどないのではないかと思う。ただ『A Double Life』は、ゴールディンが35ミリカメラのカラー、アームストロングは6×6判のモノクロームで撮影していてかなり作風に違いがある。だが喜多村と渡邊の場合は、ほとんど同じ撮り方なのであまり見た目の区別はつかない。また、ドラマチックな場面よりは、日々の出来事をあまり肩に力を入れないで撮影しているので、むしろ彼女たちの方が繊細な感情の交流や反応をしっかりと定着しているようにも見える。このシリーズがどれくらい長く続くのかはわからないが、仮に10年、20年と続いていけば、年齢や経験の積み重ねによってさらに味わいが深まってくるのではないだろうか。

2011/01/08(土)(飯沢耕太郎)

2011年02月15日号の
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