2017年11月15日号
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artscapeレビュー

村川拓也『終わり』

2015年05月15日号

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会期:2015/04/12~2015/04/13

アトリエ劇研[京都府]

2013 年の『瓦礫』に続く、演出家・映像作家の村川拓也によるダンス作品の2作目。出演ダンサーは倉田翠と松尾恵美。
ただし、前作の『瓦礫』と同様、村川自身がいわゆる「振付」を行なったわけではない。村川の演出した演劇作品におけるように、ドキュメンタリー的手法を用いて、出演者自身の身体的記憶を抽出し、再編集し、舞台空間上で再現するという方法が採られている。『瓦礫』では、出演ダンサー3名が普段の仕事で行なっている動作(飲食店のバイト、映画館のスタッフ、インストラクター)が舞台上で淡々と再現・反復されていた。一つひとつの動作の意味は明瞭であり、接客の言葉も口に出されるが、3つの動作が同じ空間に併存して展開され、互いの見え方に干渉し合うことで、具体的な日常の身振りと抽象的なダンスのムーブメントとの境界が曖昧になっていく。同時に、「現実に行なわれている行為(労働)」と「舞台上での再現」との境界も撹乱されていく(現役の介護士が被介護者役の観客に対して、介護=労働を舞台上で身振りとして行なう『ツァイトゲーバー』でも同様の事態が起こっている)。
『終わり』もまた、出演ダンサーの身体に蓄積された履歴を「再編集」してつくられている。ただし、出演者2名が過去に踊った作品から抽出した振付をソースとする点で、『瓦礫』とは大きく異なる。このソースの違いは、当然、作品の質的な差異にも作用する。『終わり』は一見、よく構成されたデュオのダンス作品に見える。だが、『終わり』を見終わって感じたのは、いわゆる完成度とは異なる強度へ向かおうとする意志に満ちていたことである。この強度には二種類ある。ひとつめは、平手打ち、相手の腹を蹴る、全身を使った激しい動き、といった元々の振付自体がもつ強さである。暴力的なまでの肉体の酷使が何度も反復されることで、ムーブメントとしての強度がより増幅されていくのだ。そして二つめが、感情の強度である。とりわけ、前作にも出演していた倉田翠が、『瓦礫』では淡々と反復・再現を行なっていたのとは対照的に、『終わり』では、カーテンコールの際に、精神的な緊張感の持続と解放が入り混じった複雑な表情を浮かべ、涙を見せていたことが印象的だった。聞けば、「過去作品を振付けした時、踊った時に何を考えていたかを思い出しながら踊る」という指示を受けていたという。つまり村川は、具体的な身体の動きではなく、意識を振付けていたことになる。呼び出した記憶を抱えて踊ること、踊ることが感情の強度を高めていくこと。それがフォームとしての反復を凌駕した時、舞台上で起こっていることはリアルな「出来事」へとすり替わる。舞台芸術では、過去に起こった出来事の「完全な再現」は原理的に不可能である。村川の作品は、この不可能性を承認しつつ、虚構の精度を上げてつくるリアリティではなく、「出来事」が起こる一瞬の裂け目に賭けているからこそ、見る者に迫ってくる。そこに、ドキュメンタリーを出自とする村川が舞台芸術作品を手がけることの意義もあると言えるだろう。

2015/04/12(日)(高嶋慈)

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