2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

2016年05月15日号のレビュー/プレビュー

《望京SOHO》

[中国、北京]

竣工:2014年

前回訪れたときは建設中だったザハ・ハディドの《望京SOHO》を見学する。同じ北京にある《銀河SOHO》と比べると、内部空間はやや弱いが、逆に外構のランドスケープはなかなかいい。4月の北京は天候もよく、ザハ的なうねる人工地形のなかで人々がくつろいでいた。今後、北京ではザハによる巨大ヒトデのような空港も建設が予定されているように、彼女を追い出した東京とは違い、この都市は完全に受け入れている。

2016/04/09(土)(五十嵐太郎)

出版社ARCHI-CREATION編集部

[中国]

石上純也のレクチャーを企画した出版社ARCHI-CREATIONの編集部を訪問した。日本でも出ていない『エル・クロッキー』の中国版のほか、フェニックス国際メディアセンターや人民大会堂など、ひとつの建物だけをテーマに、一冊ずつ本がつくられている。こういう贅沢な企画が、最近の日本では少ない。その後、高速鉄道に乗って、南京に移動する。25年前に初めて中国に来たときには考えられない速度だ。

2016/04/09(土)(五十嵐太郎)

林勇気「電源を切ると何もみえなくなる事」

会期:2016/04/05~2016/05/22

京都芸術センター[京都府]

映像作家、林勇気の個展。京都芸術センターの2つの展示室に加え、元小学校の空間2つを併用し、充実度の高いものとなっている。既発表作の延長上に展開する作品と、新基軸を打ち出した作品が発表され、それらが個展タイトルに予告されているように、「1日3回、決まった時間に映像機器の電源が落とされる」という操作によって再生/消滅を繰り返すことで、映像メディウムの成立条件や知覚体験について問い直す。
ギャラリー北に展示された《another world –eternal–》は、これまでの林のアニメーション作品の代表的なスタイルであり、デジタルカメラで撮影された膨大な画像のストックから切り抜かれたさまざまなオブジェクトが、たゆたうように浮遊し、あるいは視認不可能なほどのスピードで流れていく。食べ物、家電製品、草花、ペットボトル、車、風景の一部などの膨大な画像が、湖のように溜まり、あるいは川面のように浮かんでは流れていくさまは、日々流れるように去っていく記憶の断片を連想させるとともに、匿名的な無数の画像が蓄積され共有される「もうひとつの世界」としてのネット空間、そして画像の夥しい消費を示唆する。また、プロジェクターをあえて床置きにすることで、4面の壁に投影された映像には、観客自身の影が映り込む。それは、映像に空虚な人型の「穴」を開ける行為であるとともに、光源との距離によって伸び縮みする「影」が映像という「もうひとつの世界」の中を自在に散歩するようにも見える。黒い影が映像内へと侵入する一方で、観客の服や身体には映像の一部が移り変わる模様のように映り込み、私たちの見ている映像が非物質的な「光」に他ならないことを改めて意識させる。
また、ギャラリー南の《memories》は、昨年末のギャラリーほそかわでの個展「STAND ON」の試みを引き継ぐものであり、アニメーション、実写、3Dプリンターで制作した立体が複合的に展示される。画像を切り貼りしたアニメーションでは、輪郭線だけで描かれた男性が、箱や容器を開ける仕草を繰り返すが、中身は分からない。箱や容器の実物を、3Dプリンターで「再現」した立体が展示されるが、スキャンの際の光の反射などの「エラー」によって、完全な再現には至らない。中身の見えないブラックボックスとしての「箱」、表面を皮膜としてしか写し取れないこと──これらは、映像それ自体の謂いであるだろう。そして、壁面に斜めに歪んで映し出された映像では、 アニメーション内に登場した壁や床、電気コンセント、本棚などが映っているが、人の手によって破られることで、事物の実写ではなく、写真であったことが明らかになる。
また、新たな試みとして展示された《times》では、デジタルデータとしての画像がピクセルと数値に還元して提示される。スクリーンに次々と映される単色の色面は、1つのピクセルの拡大に過ぎず、3桁×3列の数字の色情報の蓄積は、印刷した紙の束の柱として出現する。
そしてこれら全ての映像は、ある決まった時刻になると電源を落とされて消滅する。私たちの目の前では、プロジェクターやモニターが置かれた、ギャラリーの物理的な空間が露わになり、映像への没入が中断される。映像の非実体性、その儚さや脆さ、そして電気の供給の前提が浮き彫りとなる。その電源消失は予告されているものの、予測不可能な外部のアクシデントによって、今この瞬間にも起きうる可能性について思いを至らせるのだ。あるいは、第三者の介入による意図的なスイッチオフと空白の出現は、権力による干渉や検閲といった作品への暴力的な介入をも連想させる。意味の世界/人工的な光という二重性の下に映像を捉え、実体と映像とのズレや乖離を提示し、デジタルデータとしての映像をピクセルと数値へ還元するなど、映像メディアの条件に自覚的に取り組む林は、本展において、「電源を切る」というシンプルな行為の持つ複雑な奥行きへと、見る者の思索を誘っていた。


ギャラリー北 《another world eternal 》展示風景
撮影:表恒匡


ギャラリー南 《memories》展示風景 電源あり(左)となし(右)
撮影:表恒匡

2016/04/10(日)(高嶋慈)

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中居裕恭「北斗の街──遡上の光景」

会期:2016/04/05~2016/09/25

三沢市寺山修司記念館エキジビットホール/短歌の径[青森県]

2016年2月17日に60歳で急逝した中居裕恭の遺作展が、青森県三沢市の寺山修司記念館で開催された。中居は1955年、青森県八戸市生まれ。1976年にワークショップ写真学校の細江英公教室で学び、その後、森山大道や北島敬三が所属していたギャラリー、CAMPの活動に参加する。八戸に帰郷してからは、ギャラリー北点を主宰し、写真集としては『北斗の街──遡上の光景』(IPC、1991)、『残りの花』(ワイズ出版、2000)を刊行した。じつは寺山修司記念館で森山大道との二人展を開催する予定があり、準備を進めていた矢先の突然の死だったという。本展の作品セレクト・構成は、その遺志を受け継いで、森山自身の手によっておこなわれた。
ぬめぬめと照り輝くような黒みを帯びたプリント、内から滲み出るような鈍い光を発するモノや人間たち、ざっくりと大づかみに切り取られた殺気を孕んだ路上の眺め──たしかに森山大道の強い影響力が刻みつけられてはいるが、そこには北方志向とでも言うべき骨太な写真表現が、確実に根を張り、大きく育ちつつあった。森山が「単純な郷土愛じゃなく、もっと広い視野に立つと見えてくるものを求め続けた写真家だった」というコメントを寄せているが、まったくその通りだと思う。
そして、その「広い視野」が、よりくっきりとあらわれていたのは、記念館の外の松林を抜けて寺山修司の文学碑に続く「短歌の径」に、パネル貼りで野外展示された12点の写真群だった。小川原湖を望む、広々とした風景のなかで、あらためてそれらの作品を見直すと、中居があたかも事物や風景の呼吸に合わせて、深々と、抱き寄せるようにシャッターを切っているさまが、ありありと見えてきたのだ。今回展示されたのは「北斗の街──遡上の光景」のシリーズだけだったのだが、その後の彼の写真家としての歩みを辿るような写真展も、ぜひ実現してほしいものだ。

2016/04/10(日)(飯沢耕太郎)

前田哲明の彫刻

会期:2015/12/05~2016/04/10

平塚市美術館[神奈川県]

溶断した鉄板を円筒や円錐状に丸めて林立させた彫刻を、館内のロビーなどに展示している。表面には荒々しいテクスチュアが施され、一見重厚きわまりないが、実際には空洞だらけで意外と軽やかな印象もある。前田には宙づりの作品もいくつかあるが、この重そうで軽やかというチグハグさが彼の彫刻の特徴かもしれない。

2016/04/10(日)(村田真)

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