artscapeレビュー

2009年11月15日号のレビュー/プレビュー

泉啓司「脇から滝」

会期:2009/09/26~2009/11/07

アラタニウラノ[東京都]

案内状には「脇から滝」のタイトルとともに、両脇から長く延びた棒状のものに支えられたシュテファン・バルケンホールばりの人物彫刻の写真が載っていて、関西のお笑いのようなあまりのベタさ加減に行く気を失っていたのだが、直前に近くで会った某画商から「ほしかったけど完売していた」と聞いて、急に行ってみたくなる。なるほど、ベタなお笑いというより、のっぺり顔に短足みたいな典型的な日本人の特徴をとらえたリアルな人物像と、流れ落ちる水や煙や虹といった不定形の非固形物を組み合わせた意外性が新鮮であった。彫りの深い顔や筋骨たくましい8等身の肉体だけが彫刻のモチーフではないことを、この作品は物語っている。

2009/10/06(火)(村田真)

松本秋則 展

会期:2009/09/29~2009/10/08

ストライプハウスギャラリー[東京都]

竹を縦割りにしたものを4~5本順に並べ、途中にこれも竹でつくった水車みたいな装置を仕掛けている。上からコップ1杯の水を流すと水車がまわり、その力で竹筒を打鳴らしたり弦を弾いたりして音を出す仕組だ。流した水は下に置かれたコップで受け、再び上から流すというエコな作品。あと、天井から竹筒を吊り下げ、底にあけた小さな穴からポトッ、ポトッと水滴を落とし、下に置かれた竹筒のなかの金属板に当ててキン、カン、コンと乾いた音を鳴り響かせる装置も。いずれも不ぞろいの竹を使った手づくりの「楽器」だから、唯一無二の玄妙な音だ。

2009/10/06(火)(村田真)

山中学『羯諦』

発行所:ポット出版

発行日:2009年9月10日

1989年に東京・有楽町の朝日ギャラリーで開催された山中学の個展、「阿羅漢」のことはよく覚えている。ホームレスの男たちを正面から見据えたポートレートが、和紙のような大きめの紙にやや粗い粒子を強調してプリントされ並んでいた。手応えのある被写体に肉迫したいという表現の意図はよく伝わってきたが、そのたたずまいは神経を逆撫でされるようで、あまり気持ちのいいものではなかった。仏教用語を使ったタイトルも、ややとってつけたように感じた。
ところが、今回送られてきた写真集『羯諦』のページをめくって、山中がその後、驚くべき粘り強さと忍耐力を発揮して、「阿羅漢」のテーマを展開していることを知った。「不浄観」「羯諦」「童子」「浄土」「無空茫々然」と、25年以上わたってシリーズを重ねていくごとに、テーマは深められ、表現は繊細に、そして簡潔で力強いものになってくる。「奇形」の肉体に真っ向から取り組んだ「浄土」や「無空茫々然」は、いろいろ物議を醸すこともあるかもしれないが、写真を通じて生命と物質の境界を問いつめる作業の、極限値がここにあるといってよいだろう。写真集の造本・レイアウトもとても細やかで丁寧にできあがっている。

2009/10/07(水)(飯沢耕太郎)

宮下マキ『その咲きにあるもの』

発行所:河出書房新社

発行日:2009年10月5日

1975年生まれの宮下マキは、まさに90年代の「女の子写真」世代の写真家。2000年に刊行した『部屋と下着』(小学館)も、若い女性のプラーベート・ルームを撮影するという話題性で注目された。
だが、僕は以前から彼女はいいドキュメンタリー写真家になる資質を備えていると睨んでいた。被写体に密着し、時間と空間を共有しながら、粘り強く長期にわたって撮影を続けていく。その才能は、この『その咲きにあるもの』でも充分に発揮されている。タイトルがわかりにくいのが難ではあるが、内容的にはとてもストレートな、気持ちのいいドキュメントだ。被写体になっているのは「洋子」という二人の子どもがいる女性。乳癌が発見され、乳房の切除及び再建手術を3回にわたって受ける。その間の彼女の身体や表情の変化、周囲の反応、そして季節の巡りが、センセーショナリズムを注意深く避けて淡々と描写されていく。
「いつも私とカメラの間には。ほんの短いズレがある。/ずっと、それを恥ずかしいことだと思っていた。/でも、今は違う。/今はそのズレを感じていたい。/喜びも、痛みも、生きることも、死ぬことも、少し後に感じていたい」。「ズレ」や「揺らぎ」を含み込んだ、女性形のドキュメンタリーのあり方を、宮下はしっかりと、誠実に模索し続けているのではないだろうか。

2009/10/07(水)(飯沢耕太郎)

有元伸也「WHY NOW TIBET」

会期:2009/10/06~2009/10/11

TOTEM POLE PHOTO GALLERY[東京都]

有元伸也は、1999年に刊行した写真集『西蔵(チベット)より肖像』(ビジュアルアーツ専門学校)で第35回太陽賞を受賞した。それから10年、今回の展示には雑誌の取材でふたたびチベット奥地の街、石渠(セルシュ、チベット語ではザチュカ)を訪れて撮影した写真が並んでいた。
被写体に真正面から6×6判のカメラを向けて撮影し、深みのあるモノクロームのプリントに仕上げていく手法はまったく同じで、そこに写っている住人たちの姿もあまり変わりないように見える。ただ、よく見ると、街には新しい建物が増えており、馬をオートバイに乗り換えた若者たちの姿も目立つ。それよりも「チベットの風景や人は変わらないが、一番変わったのは自分自身」という、有元本人の言葉の方が興味深かった。たしかにある種の衝動に突き動かされるように、真冬のチベットの大地を彷徨いつつ撮影された10年前の写真の切迫感と比較すると、今回のシリーズの被写体との対峙の仕方には余裕があるように感じる。
だが、僕はそのことを否定的にとらえることはないと思う。こうして間をおいて撮り続けることで、有元自身とチベットの変貌が、絡み合いつつ膨らんでいくような、厚みのあるドキュメンタリーが形をとってあらわれてくる予感があるからだ。それは同時に、彼が現在取り組んでいる「新宿」のシリーズを、別な角度から照らし出す光源にもなっていくだろう。

2009/10/08(木)(飯沢耕太郎)

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