artscapeレビュー

2015年08月15日号のレビュー/プレビュー

知らない都市──INSIDE OUT

会期:2015/07/04~2015/08/02

京都精華大学ギャラリーフロール[京都府]

「裏返しに、くまなく」を意味する副詞「inside out」をキーワードに、伊藤存、contact Gonzo、志賀理江子、dot architects、中村裕太の作品を紹介し、美術、生活工芸、建築、身体表現など、様々な領域から「都市」について再考するグループ展。
建築設計ユニット・dot architectsと中村裕太はそれぞれ、地形分析や建築、工芸という観点から、京都という都市の新たな姿を浮かび上がらせていて興味深い。dot architectsの《京都島》では、比叡山や鞍馬山などに囲まれた京都盆地が、地下に琵琶湖の約8割の水を蓄えた水盆構造になっていることが、実際に水が循環する模型によって提示される。京都の市街地は、絶えず循環する水に浮かぶ小さな島のような存在であることが立体的に可視化されている。
また、中村裕太は、京都市街地の各所に残る、タイル貼りの土台を持つ地蔵のホコラ(通称「タイルホコラ」)のフィールドワークを行なっている。写真とテクストによる紹介に加え、タイルの補修跡がモザイク状になった造形的な面白さやホコラの構造自体の建築的多様性に注目し、本立てやカレンダー、植木棚といった別の用途を兼ね備えたホコラ型オブジェを制作している。中村の試みは、生活環境と結びついた信仰の場が現代まで残存していること、明治期以降に日本に導入された「タイル」という建築資材の歴史や工芸史、補修を加えながら受け継いできた地域住民の工夫や知恵、といった様々な観点と接続しながら、地域の文化資源として「タイルホコラ」の掘り起こしを進めるものである。
一方、contact Gonzoと志賀理江子は、身体表現/イメージの創造を通して、公共空間への介入/想像の中の都市への接近を試みる。contact Gonzoは、雑踏の行き交う大阪の梅田駅で、接触のスピードや強度を殴り合いのように増幅させていく即興的なパフォーマンスを展開。記録映像を見ると、立ち止まって怪訝そうに見る人、巻き込まれまいと避ける人、無関心に通り過ぎる人など周囲の人混みの反応は様々だ。見るべき対象であることが自明のものとして行なわれる舞台空間での「上演」とは異なり、取り巻く人々の視線は拡散的で、contact Gonzoの生み出す動きと周囲で流れ続ける人混みの動きは微妙な影響関係のうちに揺らぎ続ける。
また、志賀理江子は、当時住んでいたロンドンで、行ったことのない都市「ジャカルタ」について考えた行為の痕跡を、イメージとして昇華させた写真インスタレーションを展開。暗闇の中でインドネシア料理を食べた昼食会、ムスリムのコミュニティの集会への参加、インドネシア料理店で働く友人の女の子など、様々な人々との関係性の物語を紡ぎながら展開される写真作品は、天井から血管のように垂れ下がった照明のコードや赤いプロジェクターの光といった呪術的な仕掛けとあいまって、「まだ見ぬ都市」のイメージの中を胎内巡りのように旅する空間をつくり上げていた。赤いカーテンに覆われて顔の見えない人物に抱きかかえられた少女、暗闇の中に幾重にも重なり合った手、散乱した倉庫の中に野生動物のように潜む半裸の人物たち─それらは、想像の中に出現した亡霊的存在の可視化であるとともに、写真自体が、今ここにある肉体が存在する世界からイメージとして切り離された「亡霊」を生み出す装置であることを、写真の根源的な恐怖とともに告げている。

2015/07/04(土)(高嶋慈)

青木恵美子「いつもここに」

会期:2015/06/13~2015/07/05

ギャラリーフォガットンドリームス[東京都]

数年前から試みてる透明アクリル板の縁を彩色した新作。裏面にストライプを引いたり、額縁に入れたりする工夫もしている。以前の赤が画面の大半を覆うペインティングからは大きく変化したように見えるが、彼女の関心のありようが大きくズレたわけではないだろう。でも手の痕跡が感じられないのは見ていてちょっと寂しい。

2015/07/04(土)(村田真)

片山真妃「When the sun is its northern most point./一番明るい日」

会期:2015/06/20~2015/07/25

HARMASギャラリー[東京都]

一見、幾何学的な抽象画にも見えるが、これは彼女独自のシステムにより数字を色彩に変換し、だれかの誕生日とか命日とかを表わしたものだという。画面隅に記された数字はその計算らしい。こうした制作方法の導入は作者の恣意性を抑え、絵画をある時点で終わらせるために有効であるが、絵画としてどうかというとまた別の話になる。

2015/07/04(土)(村田真)

戦後日本住宅伝説──挑発する家・内省する家

会期:2015/06/14~2015/07/20

八王子市夢美術館[東京都]

八王子市夢美術館で「戦後日本住宅伝説」展のギャラリートークを行なう。埼玉、広島、松本と巡回してきた展覧会も、これで最終の会場となる。四カ所を比較すると、同じ展示内容でも、美術館が異なると、だいぶ違って見えるのが興味深い。八王子は、学芸員がこの手法を提案し、以前坂本一成展でも試みただけあって、空間の没入感を与える大きな建築写真のタピストリーが最も効果的である。またほかに比べると、会場の面積が小さいため、各プロジェクトが独立したエリアを確保するのが難しいために、別の住宅の模型が近接し、かえって異なる住宅のスケールを比較しやすい。例えば、《原広司自邸》と《反住器》の模型が背中合わせである。

2015/07/04(土)(五十嵐太郎)

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吉田芙希子「メレンゲの部屋」

会期:2015/06/30~2015/07/05

KUNST ARZT[京都府]

整った顔立ちに物憂げな表情。長い睫毛、風になびくサラサラの髪、滑らかな肌。西欧風の植物装飾モチーフが周囲を美しく縁どる。吉田芙希子は、「理想化された美少年・美青年像」を、巨大化したカメオのようなレリーフで表現している作家である。表面の質感は磁器のように見えるが、発砲スチロールを芯材にして石粉粘土で成形し、表面を塗装して仕上げている。
吉田の作品を考える上でのポイントは、以下の4つの構成要素である:(1)美少年・美青年×(2)レリーフ×(3)装飾×(4)窓という構造。
まず、「理想化された美少年・美青年像」について。ただしここでの「理想化」とは、女性の視線からなされたものであることに留意したい。西洋美術では、「理想化された女性像」は(制作/消費主体である男性の視線によって)無数に生み出されてきたのに対して、「理想化された男性像」は少なく、ダヴィデ像のように健康的な若い男性の「肉体美」の賛美が主流である。しかし吉田は、そうした引き締まった筋肉や均整のとれた体躯を表現する全身像ではなく、あくまで顔貌へのこだわりを見せる。女性の視線によって理想化された男性像─その視覚イメージが最も原初的な形で結晶化するのが、少女漫画の世界である。少女漫画においては、整った容姿に加え、汗や体臭、体毛といった不快な要素を一切除去された「美少年・美青年」が無数に生み出され、読者の欲望に忠実な世界を提供し続けてきた。吉田が具現化するのは、そうした実在しないファンタジーの中の理想の男性像に他ならない。
その具現化の際にポイントとなるのが、「レリーフ」や「カメオ」といった表現形式の半立体性と装飾性である。レリーフやカメオ状に成形することで、架空の二次元の世界から、現実の三次元の世界へと、物質感を伴って半ば立体的にせり出してくるのだ。同時に、顔立ちの彫りの深さを強調する角度を保ったまま、睫毛や髪の毛などの繊細な細部の立体的な表現が可能になる。また、カメオは工芸や装飾品、レリーフは建築に附属する装飾であるが、さらに植物や花の装飾モチーフが美青年たちを取り囲む。つまり吉田の作品は、少女漫画的なファンタジー、工芸、装飾といった、「美術」の外部へと排除されてきた要素が組み合わさって成立している。
さらに、ここでの「装飾」はもう一つの機能を有している。植物や花の装飾モチーフは、美青年たちの周囲を美しく縁取りつつ、「窓」のように外界から切り取るフレーミングの機能を合わせ持つ。それは、彼らと現実世界の間に切断線を引き、理想の世界へと隔離し、「一方的に眺められる眼差しの対象」として閉じ込める作用を持つ。イメージが憧れの視線に供される場を開きつつ、手を伸ばしても届かない境界線を介在させること。この理想化の作業は、サイズの巨大化によってさらに高められる。 現実感を超えるサイズによって、理想の世界の非現実性が増幅され、神像や仏像のような「神聖さ」「崇高さ」のオーラを放つようになるのだ。
磁器のように白く滑らかな肌でたたずむ彼らはしかし、あるアンビヴァレントな思いを引き起こす。とりわけ、磁器の肌理が女性の肌の美しさを表わす比喩となることを思い起こすならば、彼らは「眼差しの主体性を回復した女性としての表現」であると同時に、なお回帰する女性美の規範性の強固さを露呈させてもいる。憧れの表出や欲望の吐露を原動力にしつつ、「美術」の外部・周縁化された複数の要素を組み合わせ、そうした視線の非対称性やねじれた構造を浮かび上がらせる点に、吉田作品の批評性を見出すことができるだろう。


会場風景

2015/07/05(日)(高嶋慈)

2015年08月15日号の
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