artscapeレビュー

2015年08月15日号のレビュー/プレビュー

村川拓也『エヴェレットゴーストラインズ』Ver. A「赤紙」

会期:2015/07/10

京都芸術センター[京都府]

「出演者未定の演劇作品」である『エヴェレットゴーストラインズ』の基本コンセプトは、「演出家が出演者候補に前もって手紙を送る」「手紙には、劇場を訪れる時間と観客の前で行なう行為が指示されている」「当日劇場に来るかどうかは受け取った人が決める」というもの。ある一定の上演時間と舞台空間を設定し、入退場時のハケ方と舞台上で行なう行為を指定すること。村川は、演劇の構造的原理を「時空間の共有と行為の指示」へと還元し、裸形にして差し出しつつも、「手紙」という間接的な伝達手段やコントロールの放棄によって、再現(再演)不可能な一回性の出来事へと近づけていく。
舞台装置も指示内容もいたってシンプルだ。何もない舞台上には、背後に字幕が投影され、「分刻みの出演時間」「出演者の名前(居住地、職業、年齢)」「指示された行為」を観客に告げる。指示された行為は基本的に、誰でもできるような簡単なもので(「誰かの名前を呼ぶ」「傘にまつわる思い出話をする」「壁づたいに移動する」など)、行為同士の関連性も見いだせない。しかし、要請に応じた出演者たちが舞台上に現われる時間と現われない不在の時間が交錯するさまはスリリングであり、「ルールの設定」の厳格さは、上演ごとに揺らぎを伴った不確定性へと開かれていく。とりわけ、出演者が「不在」の空白の時間が、見る者の想像を刺激する。現実には現われなかった出演者候補が「もし現われていたら、どんな風貌でどう振る舞ったのだろうか?」。タイトルの「エヴェレット」は、量子力学において「量子は、観測者の存在によって状態が確定されるまでは、可能性が重なり合った状態にある」とするエヴェレットの多世界解釈を指す。また「ゴースト」とは、出演者候補が不在の時空間を埋めていく観客の想像力の中で、「こうだったかもしれない」可能性の世界を徘徊する幽霊のような存在を指すのだろう。
『エヴェレットゴーストラインズ』は2013年の初演と、KYOTO EXPERIMENT 2014 での再演が行なわれているが、今回は、基本コンセプトを引き継ぎつつ、新たにつくられた4つのバージョンが連続上演された。Ver. A「赤紙」は、初演時の出演者が手紙を別の人に渡し、受け取った人はさらに別の人に渡すというもので、より不確定性の増幅が企図されている。
だが今回の公演で気になったのは、本作が構造的にはらむ微妙な政治性である。「出演」に応じるか応じないか、さらに指示通りに振る舞うかどうかは、出演者候補の判断に委ねられている。彼らはプロの俳優ではなく(舞台芸術関係者も一部いるようだが、大半は「会社員」「学生」「介護職」「画家」など様々だ)、金銭の受領による契約関係に基づかない点で、性善説的な「善意」・「協力」を前提としている。ただし、本作の仕掛けの巧みさは、出演者候補を必ず指示通りに「集わせること」に賭け金を置いていない点にある。出演者候補が現われなかったこと=「失敗」ではなく、それさえも「不確定性」の振れ幅のうちに回収されてしまうのだ。だが、そうした「不確定性」を前景化・主題化することで、「手紙」という迂回路をとった「依頼」という形式がはらむ微妙な強制力は曖昧化されてしまう。
もう一つ気になった政治性は、終盤で指示される「服を脱いでください」という指示内容と、その指示が向けられる対象についてである。私が観た2013年の初演、2014年の再演、今回のVer. Aの3回とも全て、この指示が「女性」の出演者候補に向けられていた。基本的には誰でも遂行可能な指示が淡々と続く中で、終盤のこの箇所だけが異様にハードルが高く、ある種の「ハイライト」的な役割を担っていることは明らかだ。そして性別の選定も意図的なものだろう。男性よりも女性が「脱ぐ」方が「より舞台上でのインパクトが大きい」と演出家が考えているならば、そこには出演依頼がはらむ政治性に加えて、演出家(男性)から出演者候補(女性)へのジェンダー的な権力関係も二重にはらまれているのではないか。

2015/07/10(金)(高嶋慈)

蔡國強:帰去来

会期:2015/07/11~2015/10/18

横浜美術館[神奈川県]

ニューヨークに移住して20年、久しぶりに日本で個展を開く心境を「帰去来」というタイトルに込めたという。作品は全部で10点。たった10点というなかれ、1点1点が大きく、最後の《壁撞き》なんか企画展示室をブチ抜きで丸ごと使ってる。まず最初の部屋は《人生四季》という4点の連作。支持体に火薬をまき爆発させて描いたものだが、なにやら妖しげな雰囲気。それもそのはず、月岡雪鼎の春画《四季画巻》にインスピレーションを得たものだそうだ。春画には厄除けの効能があるとされており、なぜか雪鼎の春画は火除けとして重宝したらしいが、蔡さんはそのことを知って火をつけたんだろうか。大作《壁撞き》は、99匹の狼が次々と跳躍し、ガラスの壁にぶつかっては再び跳躍を繰り返すという寓話的な情景をフリーズさせたようなインスタレーション。99という数字は道教では永遠の循環を象徴するらしい。ガラスの壁は「見えざる壁」で、ベルリンの壁と同じ高さに設定してある。2006年にベルリンで初公開され、現在はドイツ銀行のコレクション。ちなみに狼はリアルに再現されているけど剥製ではなく、羊毛でつくられたフィギュアというところが蔡さんらしい。エントランス正面の半円筒形のホールには8×24メートルの超巨大な火薬絵画を展示。これは6月にこの場所で制作した《夜桜》で、桜の花の繊細ではかない美しさを一瞬の爆発で表現したもの。それにしても火薬絵画は瞬発性や偶然性を楽しむことはできるが、長時間の鑑賞に耐えるものではない。だからズドーンと重いわりにすぐ見終わってしまう。無理を承知でいえば、もっと《文化大混浴》とか《農民ダ・ヴィンチ》とか持ちネタはたくさんあるんだから、全館使って多彩な蔡ワールドを展開してほしかった。

2015/07/10(金)(村田真)

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村川拓也『エヴェレットゴーストラインズ』Ver. B「顔」

会期:2015/07/11

京都芸術センター[京都府]

『エヴェレットゴーストラインズ』のコンセプトについては、Ver. A「赤紙」のレビューを参照していただくとして、ここでは連続上映された4つのバージョンのうち、Ver. B「顔」(ある死の記憶を共有する特定のグループ数名の出演者達による上演。一人につき何枚かの指示が配られるが、どの指示に従うかは当人次第)を取り上げる。
Ver. B「顔」が秀逸だったのは、不在の対象(ある死者)「について」語られる前半の時間(証言、ドキュメンタリー)と、その不在の対象「と」語る後半の時間(フリをすること、フィクション、演劇)との落差を仕掛けることで、現実の行為とフィクションとの境界が判断不可能になる瞬間をまさに体感させた点にある。
前半では、演出家が依頼した「手紙」を受け取った出演者が1人ずつ登場し、椅子に座って演出家と向き合い、簡単な自己紹介の後、演出家からの質問に答える形で、ある死者についての記憶を語っていく。いわば、公開インタビューの形式だ。話題に上る死者は、水俣病のドキュメンタリー映画で知られ、後年は京都造形芸術大学で教鞭を取った映画監督の佐藤真で、舞台上に召喚される出演者は、大学での教え子たちだ。ここにいない不在の存在「について」語ることが前半の時間を占めているが、この「公開の証言」によって、果たしてどこまで佐藤真という人物の人となりに迫る狙いがあるのかは曖昧だ。主導権を握る演出家が投げかける質問は雑談も含み、佐藤本人よりも「目の前で話している人」の個性の方を浮き彫りにするように感じられるし、予めセットされたタイムキーパーが鳴れば、証言者は会話途中でも強制的に退場させられるからだ。だが、2巡目の質問で、「佐藤先生の死の知らせを受け取った時の状況や心境を話してください」と聞かれた時、一気に空気が重くなったのが肌で感じられ、また証言者同士の記憶に「食い違い」が生じた点は興味深い。
そして後半の時間では、演出家は席を外し、今度は「佐藤先生『と』会話して下さい」と要請される。無人になった椅子と向き合い、「先生、ご無沙汰してます」などの挨拶から始め、お世話になったお礼や近況報告などを、訥々と、照れ臭そうに、時に言葉につまりながら語り出す出演者たち。彼らは俳優ではなく、台本の再現でもなく、「演技」というには拙い誠実さにもかかわらず、いや、この上なく「誠実に」語りかけているからこそ、訓練された俳優の「演技」よりもある意味「感動的」なほどだ。しかし同時に、目の前にいない「佐藤先生」の姿やリアクションを心の中で描きながら「会話」する様子は、「演劇」に見えてしまう。ここで、先ほどまでナマの証言がなされていた時空間は、一気に演劇的な強度へと反転する。
「について語る」時間と、「と語る」時間。この落差の感取がVer. B「顔」の肝をなす。「について語る」時間が何ら演劇的に見えないのは、語る対象が「今ここにいない」ことが前提化されているからだ。逆に言うと、不在の対象についてのみ「語る」ことができる。一方、「と語る」時間は、目の前に相手がいれば日常的な行為だが、本作の場合、「対象が不在の状態」を前半から引きずったままなので、「フリ・虚構・演劇」へと接近する。
言い換えれば、前半の時間は、今ここにいない不在の存在(その最たるものが「死者」)を、語る行為を通して、(不完全な像ながらも)舞台上で語る人の脳裏/観客の想像の中に召喚しようとする時間であったのに対して、後半の時間は、「不在」として召喚した存在を、目の前に「いる」存在として投影して語る/見るように出演者/観客に要請する。この時、観念的な「不在」は、舞台上の今ここに「物理的にいない」存在へとすり替えられることで、「演劇的な時空間」が駆動させられる。
しかし同時に、前半の時間との連続性によって、リアルと虚構の境界が曖昧化する。出演者自体は前半と同じく、あくまで「本人のまま」振る舞い、また「思い出」「訃報の記憶」を語る複数の証言の蓄積を通して、「佐藤先生は架空の人物ではなく、確かにいた」実在性が担保されているため、非再現的な出来事でありつつ演劇的に見えてしまう、という宙吊り状態が出現するのだ。この引き裂かれた、アンビヴァレントな感覚を味わうこと。物語の力や俳優の技量によって感情的に揺さぶられるのではなく、感情的喚起と論理的了解が合致しない状態を味わわされることが、村川作品の特異性であり、通底する「残酷さ」である。

2015/07/11(土)(高嶋慈)

井村一巴 個展「Physical address」

会期:2015/06/23~2015/07/12

みうらじろうギャラリー[東京都]

セルフヌード写真の黒い背景に針で無数の穴をあけて、植物のツルのような菌糸のような、ときにクラゲのようなパターンを点描している。まるで自分の身体から異物がニョキニョキと生えてくるようなイメージ。あるいは皮膚に施す刺青の代用かも。いずれにせよ作者の深層心理がちょっと気になる。

2015/07/11(土)(村田真)

勅使川原三郎連続公演「ハリー」

会期:2015/07/10~2015/07/11

東京両国シアターX[東京都]

両国シアターXにて、勅使川原三郎演出/佐東利穂子の「ハリー」を見る。スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』を題材とし、過去に自殺した妻のコピーが出現するものの、現実への失望から、亡霊であるがゆえに、幾度も自殺を試みるが死ぬことができない。絶望の再生を驚異的な身体能力で表現する。舞台にモノは何もなく、闇と照明だけで空間をつくる演出も印象的だった。最後の音声によるモノローグが、やはりクローン人間である綾波レイをほうふつさせる。

2015/07/11(土)(五十嵐太郎)

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