artscapeレビュー

2011年01月15日号のレビュー/プレビュー

SHINCHIKA SHINKAICHI

会期:2010/11/15~2010/12/05

神戸アートビレッジセンター[兵庫県]

SHINCHIKAとは、2002年に結成された5人組のアーティスト・ユニット。映像、アニメ、音楽、立体、インスタレーションなどが渾然一体となっており、エンタテインメント性に富んだ作風で注目を集めている。ちなみに本展のタイトルは、彼らのユニット名と、会場の地名「新開地」の語呂合わせである。今回は、彼らの代表作を本展用にアレンジしたスペシャル・バージョンと、メンバー個々の作品が出品された。作品を見て驚いたのは、クオリティの高さと、ジャンルをシームレスに扱う柔軟な感性だ。アナログ世代の自分とは明らかに違うセンスを前に、羨ましいやら茫然とするやら……。1990年代後半にキュピキュピに出会った時の驚きを思い出した。関西出身ながら関西での活動がなかった彼らだが、今後は是非地元での活動を増やしてほしい。

2010/11/27(土)(小吹隆文)

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日比野克彦 個展「ひとはなぜ絵を描くのか」

会期:2010/10/30~2010/12/13

3331 Arts Chiyoda[東京都]

日比野克彦こそ、じつは純粋芸術を限界芸術の地平に解き放とうとしているのではないか。東京では約8年ぶりという本展を見て、真っ先に思い至ったのはこの点である。というのも、80年代のデビュー当時のダンボール絵画から近年盛んに取り組んでいる世界の辺境で描くスケッチの数々までを見てみると、そこにあるのは専門的で高度な技術というより、非専門的で日常的な手わざだからだ。日比野が用いているクレヨンやパステル、水彩絵具、ダンボール、刺繍の糸などは、文字どおり誰もが子どもの頃に親しんだことのある画材であり、ダンボールを組み合わせて厚みをもたせたマチエールは、絵画というより、むしろ工作といった方がふさわしい。たしかに、イラストレーションにおける「ヘタウマ」に相当するような稚拙さが、日比野を絵画の歴史に位置づけることを困難にしてきたことは否定できない。けれども、従来の「現代美術」に代わって「現代アート」という言葉とともに台頭した80年代のニューウェイブが、それまで積み上げられてきた戦後美術の歴史を切断したパラダイム・チェンジだったとすれば、その嚆矢とされる日比野は限界芸術によって純粋芸術の歴史を切り離したと考えることができないだろうか。言い換えれば、限界芸術によって純粋芸術を内側から撹乱することで、それまで離れていた双方の境界線を接近させ、溶け合わそうとしたのではないだろうか。現在のアートシーンで活躍するアーティストたちによる作品に、非専門性、作者と鑑賞者の交換可能性、純粋芸術にも大衆芸術にもなりうる両生類的な原始性といった限界芸術の要素が顕著に見出せるとすれば、それはもしかしたら日比野克彦が切り開いた系譜に由来しているのかもしれない。

2010/11/29(月)(福住廉)

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大﨑のぶゆき展─dimention wall─

会期:2010/11/29~2010/12/18

ギャラリーほそかわ[大阪府]

近年の大﨑の作品といえば、水溶性の紙に描いた絵を水面に浸し、イメージが崩壊する瞬間をスローモーションで撮影した映像作品が思い浮かぶ。しかし本展では、今までとは異なるタイプの映像作品が展示された。その作品とは、壁一面に投影された壁紙の模様からインクが滲み出て、模様が徐々に塗り潰されていくというものだ。本人が在廊していたので説明を受けたところ、「ゲシュタルト崩壊」という単語がしばしば発せられた。これは、例えば漢字を凝視し続けた時に陥る、意味と形態が分離したような感覚を指す単語だ。つまり大﨑の新作は、人間の空間認識を撹乱する効果を狙ったものと言えるだろう。私自身は本作でそこまでの感覚は得られなかったが、視界全体を覆うような映像ならゲシュタルト崩壊が味わえるのかもしれない。新シリーズは始まったばかりなので、今後のブラッシュアップに期待したい。

2010/11/29(月)(小吹隆文)

ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス展

会期:2010/9/018~2010/12/25

金沢21世紀美術館[石川県]

タイヤ、履き古した靴、バケツといったガラクタのドミノ倒しのヴィデオ作品《事の次第》、着ぐるみのネズミとクマが登場する一連の映像作品のほか、写真作品「ソーセージ・シリーズ」、粘土作品や彫刻作品など、フィッシュリ&ヴァイスの初期から最近までの代表的な活動が展示室だけでなく、通路や光庭なども使って紹介された。展示のボリュームとしての見応えもあるが、なかでも面白かったのが約90点の粘土のオブジェが並んだ展示室。まるで子どもがつくったようなユルい粘土造形の数々の、間の抜けたイメージやユーモラスな表情は、タイトルによっていっそう物語世界を広げていく。世界の混沌をあぶり出し、見る者を連想へと一気に導く言葉の威力もさることながら、なんでこんなにばかばかしくも鋭い言葉を思いつけるのだろうと思う痛快なウィットの数々に脱帽だった。

2010/12/015(日)(酒井千穂)

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マチェーテ

会期:2010/11/06

バルト9[東京都]

B級映画の醍醐味は、A級映画の後塵を拝しながらも、時としてその地位を換骨奪胎する怪しい魅力が溢れているところにある。チョイ役として顔は知られている反面、名前までは十分に浸透していなかったダニー・トレホを主人公にした本作は、まさしくB級映画の正統派。「これぞB級映画!」と拍手喝采を送りたくなるほど、すばらしい。なるほど、大きな鉈(マチェーテ)を振り回して、敵の身体を次々と切り刻む主人公マチェーテは、恐ろしいほど強い。けれども、マチェーテはスーパーマンやバットマンのようにスマートではないし、格好良くもない。ヒーローにしてはガタイがでかすぎるし、その顔といったらまるで厚揚げのように肉厚で、おまけにつねに仏頂面だからだ。とはいえ、映画を見ているうちに、この武骨なおっさんがこの上なく格好良く見えてくるから不思議だ。ブッシュマンを連想させる小笑いや、大衆に迎合したエロティシズム、メキシコからの不法移民をめぐる政治的問題などが、マチェーテの男気を効果的に際立てている。そして、なによりマチェーテの魅力を引き出しているのが、脇を固めている豪華な役者陣だ。ロバート・デ・ニーロ、スティーヴン・セガール、リンジー・ローハン、そしてドン・ジョンソン。とりわけ、ドン・ジョンソンは『マイアミ・バイス』の面影はどこへやら、徹底的に悪人を演じきっていて見事だったし、リンジー・ローハンも破廉恥で蓮っ葉な小娘を楽しんでいた。唯一、ダメだったのが、麻薬王を演じたセガール。残忍極まる冒頭のシーンでいつもとは別の顔を見せて期待を高めたにもかかわらず、終盤のマチェーテとの決闘シーンではどういうわけか途中でみずから切腹するという不可解な死に方で終わっていた。武士ではあるまいし、麻薬王が潔く腹を切るなんてあるものか。このシーンだけ主人公がセガールに代わってしまったと錯覚するほど、不自然な演出である。これを突っ込みどころ満載のB級映画ならではの魅力ととらえるのか、あるいは主役の座を死守したいセガールの陰謀ととらえるのか。いずれにせよ、同じ主役級でも、国境線に張り巡らされた有刺鉄線に絡めとられたまま銃弾を浴びて情けなく息途絶えたデ・ニーロは、やはりすばらしい。

2010/12/01(水)(福住廉)

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