artscapeレビュー

2011年01月15日号のレビュー/プレビュー

石内都 展「ひろしまsix」

会期:2010/11/13~2010/12/18

The Third Gallery Aya[大阪府]

被爆者が着ていた服や身につけていたものなど、その遺品を撮影した「ひろしま」のシリーズの6回目の展覧会。前日に精華大学で映画『ANPO』の上映とともに開催されたシンポジウムで、石内都さん自身から語られた「ひろしま」の作品をめぐるエピソードやこの制作への決意など、そのときの言葉を思い出し、自分なりに咀嚼しながら作品を鑑賞できたのは有り難い気がする。継ぎ接ぎ部分やすり切れた部分に目をやると、それを着用していた人の生活や風貌にまで想像が膨らんでゆく。古びたものや被爆者の遺品としてそのイメージが誘発されるというのではない。そもそもそのように見えないように撮影、展示されている写真なのだが、実についさっき脱ぎ捨てられ、体温の生々しい温度がまだ残るものを目の当たりにしているような感覚。“そのとき”まで着られていた服の数々が、風化することなく持ち主の個性を掬いあげていくようで、動揺する。奇麗な模様や柄のブラウスや持ち物は、モノと人間との関係も含めつぎつぎと連想を巡らせてやまない。 訪れたのは最終日だったが見ることができてよかった。

2010/12/18(土)(酒井千穂)

小林耕平&core of bells「運送としょうゆとかぐや姫と先生とライオン」

会期:2010/12/18

山本現代[東京都]

映像作品をつくることの多い美術作家・小林耕平がcore of bellsという名のバンドと行なったパフォーマンス。無理難題(「それは閉じています、開いて下さい」など、禅問答に似た、問いの意味自体を問わざるをえない問い)を自ら課し、小林はバンドのメンバーとともにそれを解く。本イベントではバンドの演奏の前に、この会議ともリハーサルともつかない上演が3時間超行なわれた。ビデオカメラは回っているけれども、ことさら意識されることはない。「落としどころ」を求めてしまうのは、パフォーマーの性だろう。けれども、笑いに落とすことはある意味たやすい。「ならば!」と、笑いという落としどころ以外のポイントを探索すれば、迷宮から出られない。そう、そこであらわになるのは、「演じる(遂行する)」ということの内でひとが出会う、多数のありうるコースの存在であり、そこを進む際のパフォーマー個々の性能である。演技の失敗も成功も存在しない、演じることの状態それ自体が賞味される場。そうした場の創造に狙いを定める小林は、広い意味での「演劇」とはなにかをあぶりだそうとしている。後半のバンド演奏では、前半で行なわれた問答の成果が部分的に反映されており、いわゆる「バンド演奏」の範疇を大きく逸脱する、演劇的なパフォーマンスが展開された。ロック、パンク、フォークなどで演奏する身体が示すさまざまな身振りや決めポーズをまるでおもちゃ箱のおもちゃみたいに取り出してはもてあそぶ。ポスト(アンチ)ロックというよりメタロックとでも称すべきcore of bells。実に魅力的なのだが、そもそも演劇的な面のあるロックを参照する分、パッチワークの仕方は奇妙でも個々の落としどころはわかりにくくない。対照的に、謎それ自体に向き合う小林の試みはきわめて特異なものに映った。

2010/12/18(土)(木村覚)

小谷元彦「幽体の知覚」

会期:2010/11/27~2011/02/27

森美術館[東京都]

写真やヴィデオを用いた作品があるとしても、やはり小谷元彦は彫刻の作家だ。彫刻とはしばしば身体を三次元的にイメージ化する表現形式。「幽体」という言い回しにもあるように、小谷はただひたすら身体のイメージ化に取り憑かれているようだった。「身体のイメージ化」と言ってみたが、見られる対象としての「身体のイメージ化」でもあるだろうが、それだけではなく、対象から刺激を受け続けている見る者の「身体のイメージ化」でもあるだろう。小谷が造形した身体イメージは見る者の知性や感性と言うよりも生命にこそ訴えるのである。ゾッとし、冷や冷やし「やばい」と思わされた瞬間に見る者の体に広がる官能。それは、見ている対象がリアルではなくイメージに過ぎず、現実との距離が確保され、本当に危険なわけではないから成立しているのは確か。と言っても、立体で造形されたイメージは見る者の身体を怯えさせるのに充分で、見る者は自分の身体の存在をこれでもかと確認させられることになる。「映像彫刻」と称される作品では、見る者は登ったり落ちたりする滝のような水の流れに囲まれる。360度スクリーンとなった円筒形の部屋には上下鏡が設えられていて、スクリーンに映された滝に全身が浸たされる錯覚に陥る。小谷の魅力は、そんな最中でも滝のしずくの造形性にうっとりさせられるところで、作品個々のディテールの美しさは圧倒的だ。身体を襲う崇高さとディテールの内にあまねく貫かれている美しさとが共存する作品たち。官能性が強烈に保たれつつもある種の趣味に閉じこもることなく、森美術館の展覧会らしいデートコースへの対応力も備えている。現代美術は観客に理屈ではなく感覚で受けとめさせればよい、と諭されているような気持ちになる。近年あちこちで見かけるそうした戦略の成功例ととらえるべきなのだろう。

2010/12/18(土)(木村覚)

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羽幹昌弘「とうもろこしの人間たち GUATEMALA 1981~2008」

会期:2010/12/15~2011/12/29

銀座ニコンサロン[東京都]

1985年に東京・恵比寿の東京デザイナーズスペースフォトギャラリーで「ある古都の一世紀 アンティグア・グアテマラ 1895─1984」という展覧会が開催された。グアテマラで写真館を経営していた日本人写真家、屋須弘平が19世紀末~20世紀初頭に撮影した古都、アンティグアの風景や建物と、それをまったく同じアングルから撮影した羽幹(うもと)昌弘の写真とを、並べて展示した写真展だ。一世紀近い時を隔てているにもかかわらず、まるで時が止まったようにほとんど変わりがない写真群を目にして、強い衝撃を受けた。それをきっかけとして、屋須弘平について調べ始め、アンティグアにも2度足を運ぶことになった(「グアテマラに生きた写真家 屋須弘平」『日本写真史を歩く』ちくま学芸文庫、1999年所収)。その時のコーディネートと通訳で、羽幹にはいろいろお世話になった。だからその彼の、30年近くグアテマラに通い詰めて撮影した写真を集成した今回の展覧会には、とても感慨深いものがあった。
おそらく、グアテマラを実際に訪れたことがあるかないかで、写真の見方がかなり違ってくるような気がする。写真の多くには民間信仰の儀式の様子が写っている。そのエキゾチックな衣裳や、トランス状態の人々の異様な雰囲気は、充分に一目を引きつける強度を備えている。だが、儀式以外の日常の場面においても、宗教的な空間と同様のテンションの高さがずっと持続し、至るところで奇跡のような出来事が起こってくるのだ。たしかに、僕がグアテマラに滞在したごく短い期間でも、日常と非日常、現実と幻影がせめぎあい、浸透し合っているような場面に何度も遭遇した。そこではまさに、「とうもろこしの人間たち」が歩きまわり、動物や鳥たちが人間のようにふるまう神話的な世界が、ごく当たり前のようにあらわれてくるのだ。羽幹はそんな光景を淡々と写しとっているのだが、見方によっては怖い写真ばかりだ。見ているうちにふっと足元の地面が消え失せて、体ごと宙にさらわれそうに感じてしまう。

2010/12/18(土)(飯沢耕太郎)

大和田良「Wine Collection」

会期:2010/12/01~2011/12/25

エモン・フォトギャラリー[東京都]

4月から9月にかけてキヤノンギャラリー銀座をはじめ各地で開催された個展「Log」、写真論集『ノーツ・オン・フォトグラフィ』(リブロアルテ)の刊行など、2010年は大和田良にとって大きな飛躍の年だった。その最後の時期にエモン・フォトギャラリーで開催された「Wine Collection」展も、これまでの彼の仕事とはひと味違った領域に踏み出そうという意欲を感じさせる作品である。
スナップショットやポートレートを中心に制作してきた大和田が、今回は徹底した「抽象」の世界にチャレンジしている。赤~黒の微妙なグラデーションを浮かび上がらせる写真の展示は、一見カラーチャートを羅列したようだ。だがそれが、何種類ものヴィンテージワインを撮影したものだということがわかると、また別の思いが湧き上がってくる。ワインは特にヨーロッパの歴史において、重要な文化的な意味を担ってきた飲み物である。「キリストの血」がワインによって表象されるということだけでも、その深みと広がりがただ事ではないことがわかるだろう。そのワインを、純粋な色彩の表現としてとらえるために、大和田は実に巧みな操作を行なっている。ボトルに入った状態のワインを撮影し、後でそのデータからガラスの緑色を抜き取るというアイディアである。このような「手法」の開拓は、写真家が何か新たな領域に踏み込む時には必ず必要になってくることで、それを大和田はあまり気負うことなく軽やかにやってのけた。そのために、作品そのものも重苦しくなく、すっきりとした仕上がりになっている。

2010/12/18(土)(飯沢耕太郎)

2011年01月15日号の
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