artscapeレビュー

2015年10月15日号のレビュー/プレビュー

塩田千春のスタジオ

[ドイツ、ベルリン]

塩田千春のスタジオを訪問した。旧東側の壁に近いエリアで、監視塔を改装した建築である。ベルリンは、すぐに忘却する日本と違い、どこに行っても戦争や政治の痕跡が空間に蓄積されている。今年は残念ながらヴェネツィアビエンナーレ国際美術展に行く時間をとれなさそうだが、彼女が日本館の設営での苦労や成し遂げたこと、活動のいろいろをうかがう。

2015/09/21(月)(五十嵐太郎)

ブルーノ・タウト《ブリッツ・ジードルンク》

[ドイツ、ベルリン]

竣工:1925年

郊外の集合住宅へ。ブルーノ・タウトが手がけた馬蹄形のジードルングは思っていた以上に大きく、日本の感覚から見ると、空間にかなりゆとりがある。また、世界遺産になったおかげか、メンテナンスが行き届き、あまり古さを感じさせない。日本の集合住宅は半世紀もすれば、ほとんど壊されてきたが、ここはきちんと使われ続けている。

2015/09/21(月)(五十嵐太郎)

ダニエル・リベスキンド《ベルリン・ユダヤ博物館》

[ドイツ、ベルリン]

一般オープン(2001年)以来、つまり14年ぶりの《ユダヤ博物館》へ。アーティストとグリーナウェイのコラボレーションの展示を開催していた。以前、訪れたときは昼間だったが、今回は夕方だったので、ホロコーストタワーの内部の光がもっと弱々しく、さらに絶望的な空間に感じられた。また、外に出たときはもう夜になっており、リベスキンドお得意のジグザグラインの開口から室内の照明が漏れ、まさに闇の中の雷のように見える。亡命の庭もほのかに光り、時間帯によってかなり印象が異なることが収穫だった。

2015/09/21(月)(五十嵐太郎)

生誕100年 写真家・濱谷浩──もしも写真に言葉があるとしたら

会期:2015/09/19~2015/11/15

世田谷美術館[東京都]

1999年の死去から16年あまりを経て、濱谷浩の回顧展が開催された。「モダン東京」「雪国」「裏日本」「戦後昭和」「學藝諸家」の5部構成で、代表作200点が並ぶ。生前制作のプリントを元にして、2015年に再制作された写真だからだろうか。戦前や1950年代の写真群を見ても、奇妙な生々しさを感じる。今回は残念なことに、後期の代表作である1970年代以降に世界各地で撮影された壮大なスケールの風景写真のシリーズは割愛されているのだが、より大きな会場で、この不世出の写真家のより規模の大きな展示を見たいものだ。
今回あらためて強く感じたのは、濱谷の写真家としての実験精神である。1930年代の銀座や浅草のモダンな風俗写真は、明らかに同時代の「新興写真」の影響化にあり、1945年8月15日の正午にカメラを天に向けて写した「終戦の日の太陽」の写真も、その延長上にあると思う。『雪国』(毎日新聞社、1956年)、『裏日本』(新潮社、1957年)でドキュメンタリー写真に転じた後も、画面構成や明暗の処理にはモダニズム時代以来の実験精神が息づいている。『學藝諸家』(岩波書店、1983年)も単なる人物ポートレートの写真集ではない。モデルの個性をどのように表現していくのか、画面の隅々にまでさまざまな工夫が凝らされている。
内容だけではなく、むしろ語り口やフォルムから濱谷の写真を読み解いていく視点が必要になるのではないだろうか。彼の写真表現の「新しさ」に着目すべきだろう。

2015/09/22(火)(飯沢耕太郎)

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山城知佳子+砂川敦志(水上の人プロダクション)「PACIFIKMELTINGPOT / In Situ Osaka 2013」映画上映

会期:2015/09/22~2015/09/23

神戸映画資料館[兵庫県]

フランス人振付家、レジーヌ・ショピノのカンパニーをハブにして、太平洋諸地域のアーティストや研究者が展開する《PACIFIKMELTINGPOT》。これまで、ニューカレドニアやニュージーランドの先住民であるカナックやマオリなど、口承文化をまだ受け継ぐ地域の人々とワークショップを行ない、リサーチを積み上げてきた。2013年には大阪で「PACIFIKMELTINGPOT / In Situ Osaka」ライブパフォーマンス&ディスカッションが開催され、日本、ニューカレドニア、ニュージーランドという3つの地域のアーティストが参加した。この映画は、大阪でのリサーチワークとその成果発表の上演を記録したドキュメンタリーである。監督は、沖縄を拠点に活躍する映像作家・山城知佳子と映画監督・砂川敦志。《PACIFIKMELTINGPOT》の完結編となる神戸での公演に合わせて上映された。
このドキュメンタリー映画の特徴は、振付家やダンサーたちが交わす言葉に対して、字幕が一切付けられていない点にある。フランス語、英語、日本語。3つの地域の3つの言語が入り乱れてやり取りされるリサーチワークの現場。ダンスは身体言語の芸術だが、創作現場ではたくさんの言葉が発せられ、身体への探究が言語化を通してフィードバックされる。加えて、《PACIFIKMELTINGPOT》の場合、身体から発せられる音や声、つまり口承文化の豊かな語りや歌唱も作品を構成する素材となる。映画では、観客が「字幕を読む」ことを封じることで、身体の動きへの注視に加え、聴こえてくるさまざまな歌や音そのものが際立っていた。アカペラ歌唱、その力強さやハーモニックな調和、手拍子や足踏みで集団的に刻むリズム……。さらに木琴の即興演奏が加わる。ここでは常に絶えず声と音が流れ、多声的な場を醸成している。その意味で、これはダンス映画であると同時に、音楽映画と言えるだろう。
字幕がないことで、(日本の観客にとって)もうひとつ際立つ部分が、通訳を兼ねた日本人ダンサーと振付家とのやり取りだ。3地域それぞれのグループ毎に、動きや声を通して身体の共同体的質を探っていくのだが、日本の子守唄やわらべ唄を歌いながら踊ってみせたダンサーたちに対して、ショピノは「私にはそれは何のバイブレーションも起こさなかった」と厳しい判断を下す。共同体的身体や「起源」の捏造や再生産は、とりわけそれが「国家」という仮構されたシステムと結びつくとき、同化と排除の論理の強化につながる危険性を大いに孕んでいる。あるいは、グローバリゼーションと消費資本主義が覆っていくなか、多文化主義への回収や観光資源化されていくだろう。しかし、口承文化が生活のなかにまだ残っているカナックやマオリの出演者たちとは異なり、われわれの身体にはそうした共同体的質がどの程度まで宿っているのだろうか。筆者のインタビューにおいて、ショピノは「2年前の大阪でのクリエーションは互いの差異を知る段階として必要だった」と語っていたが、ここでの「差異」とは所作やリズム感、体格の違いといった表面的なもの以前に、歌や踊りとして身体化された共同体のルーツの有無という、より根源的な差異ではなかったか。

2015/09/22(火)(高嶋慈)

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