artscapeレビュー

2015年10月15日号のレビュー/プレビュー

TODAY IS THE DAY:未来への提案

会期:2015/07/26~2015/09/27

アートギャラリーミヤウチ[広島県]

モニターにライブで映る自分自身に向き合いながら、モニターの中心から指がずれないように指差し続けるヴィト・アコンチの映像作品《リ・センターズ》(1971年制作の《センターズ》のリメイク)で始まる本展。モニター=鏡を介して、こちらを指差す自分を指差し続ける、すなわち己の立ち位置の絶えざる問い直しという、印象的で象徴的な導入だ。被爆地・広島において、東日本大震災以降の現在の社会を照射する本展には、ジョーン・ジョナス、ローレンス・ウィーナー、ピピロッティ・リスト、リュック・タイマンス、アピチャッポン・ウィーラセタクン、奈良美智、小沢剛、照屋勇賢など世界的な作家16名が参加している。
強いインパクトで目を惹いたのは、伊藤隆介のヴィデオ・インスタレーション。《そんなことは無かった》では、めちゃくちゃに破壊された福島第一原発の原子炉内部がスクリーン上に映し出されるが、徐々にカメラが退いていくと、精巧に出来たミニチュアのジオラマであることがわかる。映像の前にはお菓子のパッケージの箱と、その奥にジオラマの実物が置かれており、先端に小型カメラの付いた棒がお菓子の箱に開いた穴の中へ侵入していくと、カメラの捉えた映像がライブで映し出される仕掛けだ。また、《自由落下》では、原子爆弾が雲の中を落下する映像が映し出されるが、映像の与える衝撃をあざ笑うかのように、のどかな青空の書き割りの前で原子爆弾の模型が回転し続ける様子が、「撮影セット」として晒されている。写真や映像メディアの虚偽性への問いに加え、永遠に落下し続ける原子爆弾=原発問題の先送りに対する痛烈な批判が窺える。
ユーモアを交えつつ直球を投げかける伊藤作品に対して、ダレン・アーモンドやジャン=リュック・ヴィルムートの作品は、より詩的かつ美しさを湛えている。そしてこの、「美と恐怖の共存」という両義性こそ、本展を通奏低音のように貫く感覚である。ダレン・アーモンドの《Full Moon》シリーズの写真作品は、若狭湾原子力発電所群の半径30km圏内に位置する海岸の風景を、夜間に満月の月明りのみで長時間露光して撮影されている。松の木も岩肌も海面もほの白く発光しているかのようで、凍りついたように幻想的で美しいが、冴え冴えとした白い光に満ちた画面は死の世界を思わせる。ヴィルムートの《Marine Science》では、抒情的であまりにも美しいピアノの旋律、穏やかな光に満ちた海の光景とともに、早く漁を再開したいと話す被災地の漁師のインタビューが挿入される。また、1983年制作と30年以上前の作品でありながら、預言的な戦慄を覚えたのが、ビル・ヴィオラの映像作品《Anthem(聖歌)》。駅舎の暗いホールに一人佇む少女が上げた叫び声は、次々と周波数を変換され、工場の機械の不気味なノイズ、深い森のざわめき、街中のサイレン、手術室の電子音として機械的に変質され、重工業地帯、森の中、多幸感あふれるショッピングエリア、手術室で切り刻まれる人体などの映像に重ねられていく。少女の悲鳴は、世界の残酷さや狂気に初めて触れた叫びのようでもあり、また彼女こそ世界の暗い中心にいて、さまざまに変質されていく叫びを送り出す存在、つまり世界の恐怖の音源であるようにも見える。
このように、本展の根幹には原発事故を端緒とした問題意識が据えられているが、「原発反対」の声高な主張へと収斂するのではなく、「世界は畏怖や狂気で満ちている/にもかかわらず、こんなにも美しい」という美と恐怖の同居に引き裂かれている。そのことがより戦慄を覚えさせる。だが、政治的枠組みの矮小さに堕することなく、そうした倫理的要請を超えた矛盾(存在そのものの矛盾)を引き受け、同時代に向けて提示することこそ、アートの可能性ではないだろうか。

2015/09/27(日)(高嶋慈)

Hiroshima Art Document 2015

会期:2015/09/19~2015/10/03

旧日本銀行広島支店[広島県]

「Hiroshima Art Document」は、インディペンデント・キュレーターの伊藤由紀子によって、1994年から毎夏開催されている国際的なグループ展である。会場となった旧日本銀行広島支店は、「被爆建物」のひとつであり、広島市指定重要文化財になっている。重厚な石造りの外観と、かつて銀行として使われていた内部空間が残されており、天井高のある開放感あふれるホール、圧迫感と密室感を感じさせる地下金庫室など、空間ごとの特性や場のもつサイトスペシフィックな性格を活かした展示となっている。特に展覧会の全体テーマやコンセプトが設定されているわけではないが、広島という地、「被爆建築」という場所性を意識した作品が展開されている。
秀逸だったのは、ハンス・ヴァン・ハウエリンゲンの映像作品《おい、パールト、原子爆弾はどうする?》。アメリカのテレビ番組、原爆開発や投下の関係者のインタビュー映像、原爆の被害に関する調査報告といった記録映像の中に、インド神話を俳優が演じた映像が繰り返し挿入される。原爆投下の正当性を主張し、「義務を果たしただけだ」と述べる関係者のインタビューと、「武人としてなすべきことを果たせ」と神話上の英雄に呼びかけるインドの神の、いかにも作り物くさいドラマの映像。複数のソースの映像が繋ぎ合わされ、ドキュメントとフィクションが交錯することで、歴史を物語る視点の単一性や絶対性が揺るがされ、解体される。
また、今回の展示で気になったのは、ジャン=リュック・ヴィルムートの《タイムズ・サイエンス》とセシール・アートマン《堆積物と空隙(ウォール街、広島)》。前者は、巨大な黒板を模したボードに、「ヒロシマ」「ナガサキ」「フクシマ」、それぞれの核爆発の時刻を指す3つの時計を貼り付け、その周囲にチョークで幾重もの同心円を描いたインスタレーション作品である。一方、アートマンの作品は、広島とニューヨークのグラウンド・ゼロ、それぞれの地面や地表を撮影したモノクロ写真を、重ねて床に置いたものである。写真の粗い粒子や曖昧で不鮮明なイメージは触覚性を喚起し、上に別の写真が重ねられることで一部が見えないことによって、記憶の堆積とともに喪失や亡失をまさに体現する。また、なにかの上を覆うように床に重ねて置かれた姿は、写真でありながら、墓標のようなモニュメントの様相を呈している。
非当事者が、表象不可能性に抗いながら、時間・空間的に遠く隔たった想起の困難な出来事に対して、想像力をもって接近しようとする行為の意図は理解できる。だが、「ヒロシマ」「ナガサキ」「フクシマ」と、「ヒロシマ」「ニューヨークのグラウンド・ゼロ」という複数の「爆心地」が、その地域的・歴史的な固有性を剥ぎ取られ、「時計の指す時刻」「地面=表皮の痕跡」へと記号的に還元され、暴力的に直結されてしまうことに対しては、プロブレマティックな思いを抱かざるを得なかった。


左:ジャン=リュック・ヴィルムート《タイムズ・サイエンス》
右:セシール・アートマン《堆積物と空隙(ウォール街、広島)》

2015/09/27(日)(高嶋慈)

BankARTスクール横浜建築家列伝vol.2 五十嵐太郎+磯達雄 ゲスト林要次「中村順平について」

会期:2015/09/28

BankART Studio NYK[神奈川県]

磯達雄と共に講師を担当している今期のBankARTスクールでは、横浜建築家列伝をテーマとしており、林要次をゲストに迎え、横浜国立大学の前身となる学校で教鞭をとった中村順平のレクチャーが行なわれた。彼は曽禰中條の事務所で働いた後、ボザールに留学するが、関東大震災を聞いて、復興に寄与すべく、急いで帰国して教育者となる道を選んだ。中村がモダニズムが掲載された外国の雑誌を学生にあまり見せなかったエピソードが興味深い。林は博士論文において、中村のメモから当時フランスで読んだであろう書籍を割り出したという。当時の建築界の状況を知るうえで、貴重な労作である。

2015/09/28(月)(五十嵐太郎)

八嶋有司「The Dive Methods to trace a city」

会期:2015/09/22~2015/10/03

galerie 16[京都府]

八嶋有司の作品は、断片の収集と身体性、知覚のシステムというキーワードから考えることができる。例えば、筆記具売り場に残された試し書きの筆跡をサンプリングし、アクリルやネオン管へと物質的に変換した《formless works》や、ネコに小型カメラを取り付けて撮影し、屋根の上や路地裏を徘徊するネコの視線を擬似的にトレースした《みるねこ》がある。
本個展で発表された《The Dive》は、作家自身の身体に計6台の小型カメラを取り付けて撮影した映像を、ギャラリーの全方位の空間に投影したビデオ・インスタレーション。前面と後面の頭部2ヵ所、両腕、両足に取り付けたカメラの映像が、部分的に重なり合いつつ、壁、天井、床に投影され、鑑賞者の身体を包み込む。撮影された光景は、ごく日常的な風景だ。自宅の部屋から出る、階段の上り下り、車の運転や電車内、水田の広がる田園風景の中を歩き、野原や林の中へと歩行は続く。正面に投影された映像は平衡を保ち、眼の代替としてのカメラの役割を保っているが、左右の壁面に投影された映像は、左右の腕の振りや動きに合わせてブレ続け、絶え間なく回転し、時に上下反転するほど激しく動き、平衡感覚を撹乱させる。床面にはブレまくった足元の地面と両足の動きが映し出され、後ろを振り返れば、風景は小刻みに上下に揺れながら、どんどん遠ざかっていく。眩暈を誘う一方で、歩行に由来する一定のリズムが陶酔感を与えるようでもある。
ここでは、複数のカメラによる同時撮影によって全方位の視覚が統合されるのではなく、むしろ分裂が積極的にもたらされる。映像の微細な振動や一定の間隔を刻むリズムは、身体各部のバラバラな動きと歩行の身体的リズムを見る者にダイレクトに伝える。《The Dive》では、撮影行為が先行し、外部に存在する被写体を撮るという目的に身体が従属するのではなく、カメラ=眼は身体の運動(歩行、階段の上り下り、車の運転……)に付随させられているという転倒が起きている。その結果、全体の滑らかな統合は放棄され、運動体に由来する固有のリズムと振動を伴った映像の断片の重なり合いが、連続と不連続の内に提示される。ここでは、普段は自明視されている運動と知覚、映像イメージの関係をめぐって、ふたつの問題提起がなされている。ひとつの運動体を複数のカメラを用いて異なる距離やアングルから撮影し、ショットの切り替えなど巧みな編集操作によって、視覚的に再統合させるという映像の文法に対して。そして、全身を映す鏡や写真といった外部の視覚装置によって担保されている、統合された身体という自己イメージに対してである。八嶋の試みは、カメラそれ自体を用いて亀裂を入れることで、それらがいかにあっけなく解体してしまうかを問いただしている。

2015/09/29(火)(高嶋慈)

岡本光博「LIFEjackets」

会期:2015/09/29~2015/10/04

KUNST ARZT[京都府]

現代社会にあふれる企業ロゴや商標、商品パッケージを引用し、「ベタ」なまでのユーモア感覚で言葉遊びを具現化させ、記号を物質へと反転させる作品を制作してきた岡本光博。岡本作品の面白さは、消費資本主義社会への批評、現代アートにおける「登録商標」とも言える既成の表現スタイルの引用など、複数の記号の操作のなかに、毒と笑いの共存というギャグの本質を含ませながら、現代社会を痛烈に批判する点にある。
本個展では、東日本大震災以降に岡本が制作してきた、「LIFE」という言葉を冠した作品のなかから、4着の「ライフジャケット」が展示された。1着は、生命保険会社21社のイメージキャラクターのぬいぐるみ52体を縫い合わせた立体作品。CMでおなじみのかわいいキャラクターたちが、文字通り、救命胴衣のベストを形づくる。「信用」や「安心」「保障」をお金で買うという行為のあやふやさとともに、幼児化する社会への批評が見てとれる。また、別の「ライフジャケット」は、上着に、生命保険会社のロゴが刺繍やプリントでびっしりと施された作品である。スポンサー企業のロゴが貼り付けられたF1レーサーやスポーツ選手のユニフォームのように見えるとともに、護符のような呪術性をも感じさせる。この「ライフジャケット」を実際に着た作家が、原発のある敦賀湾の海に溺死体のように浮かぶ映像作品も合わせて展示された。
一方、最後の1着は、霊能師であった祖父や幼い頃に飼っていたペットなど、作家自身の「守護霊」によって守られた上着の作品である。現世の「守護霊」(物質主義)と霊界の「守護者」(目に見えない存在)。両極端に見える両者はしかし、「その効力を信じるしかない」という一点で共通している。果たして、どちらの力を信じるべきなのだろうか。

2015/09/29(火)(高嶋慈)

2015年10月15日号の
artscapeレビュー