artscapeレビュー

2013年01月15日号のレビュー/プレビュー

川俣正 展「Expand BankART」

会期:2012/11/09~2013/01/13

BankART Studio NYK[神奈川県]

川俣正 展「Expand BankART」へ。オープンの日はまだ一部しかできておらず、ワーク・イン・プログレスを続け、訪問時は完成していた。BankARTの内外ともに、開口の建具やパレットが増殖しながら建物をハッキングしていく。二階で壁を使わず天井のみの設置、あるいは三階の展示室に大きな余白をもうけるなど思い切った構成もカッコいい。

2012/12/24(月)(五十嵐太郎)

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野村次郎『峠』

発行所:Place M

発行日:2012年12月1日

2011年2月~3月に新宿御苑前のギャラリー、Place Mで開催された野村次郎の個展「峠」について、本欄に以下のように描いた。
「怖い写真だ。会場にいるうちに、背筋が寒くなって逃げ出したくなった。(中略)落石除けのコンクリートや枯れ草に覆われ、時には岩が剥き出しになった崖、その向こうに道がカーブしていく。時折ガードレールに切れ目があり、その先は何もない空間だ。それらを眺めているうちに、なぜかバイクごと崖に身を躍らせるような不吉な想像を巡らせてしまう。そこはやはり『立ち入り禁止の林道』であり、写真家はすでに結界を踏み越えてしまったのではないか」
こんなふうに感じたのには理由があって、野村が一時期精神的に不安定な状態に陥り、「引きこもり」の状態にあったことを知っていたからだ。自宅の近くにある林道を撮影したこの連作に、そのときの鬱屈した心情が写り込んでいるのではないかと想像したのだ。
ところが、今回写真集として刊行された『峠』を見て、やや違った思いを抱いた。たしかに「怖い写真」もある。だが「峠」には時折日が差しこみ、風も吹き渡っている。そこから伝わってくる感情は、閉塞感だけではないようだ。作者の野村自身は、「あとがき」にこう書いている。
「峠。そこは、ある意味閉ざされた場所で、お互い符号を持たない同士ゆえ、僕には開放感をあたえてくれる」
「符号を持たない同士」という言い方はややわかりにくいが、写真学校を中退して引きこもってしまった野村と、人もあまり通わずほとんど見捨てられてしまった林道のあり方が重ね合わされているということだろう。彼がそこにある種の「開放感」を見出していたということが、今回写真集のページを繰っていてよくわかった。撮影期間は2002~2011年。野村がPlace Mの存在を知り、再び写真に取り組み始めた時期だ。そこには恢復への希望が託されているようでもある。

2012/12/24(月)(飯沢耕太郎)

ミュシャを愛した日本人

会期:2012/11/17~2013/03/10

堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館[大阪府]

堺市立文化館は「与謝野晶子文芸館」と「アルフォンス・ミュシャ館」のふたつの館で構成されており、どちらも年に数回、コレクションをもとにしたテーマ展を開催している。今回、取り上げるのはミュシャ館で2013年3月10日まで開催中の「ミュシャを愛した日本人」展だ。明治期の日本におけるミュシャの受容の様相を、写真・文献資料を読み解きつつ、ミュシャおよび日本人作家の作品を並置することで照射する意欲的な試みである。
 4章から成る本展は、第1章がトゥールーズ=ロートレックやミュシャ等、19世紀末の著名なポスターの紹介を通じて、アール・ヌーヴォーの芸術を概説する役割を担っている。最後の第4章は、堺市が所蔵する約500点のミュシャ作品を収集したコレクター、土居君雄氏の紹介にあてられている。このふたつの章は、おそらく当館のどの企画展においても欠かすことのできない部分だろう。それゆえ、今回のテーマを直接反映していたのは第2、3章だが、とりわけ第2章の展示は秀逸だった。同章では、明治期においてミュシャのポスターが、黒田清輝らが設立した美術団体「白馬会」展などで展示されたことが、ミュシャのポスターが片隅に映っている白馬会展の会場風景写真により示される。そして、この写真の横には、写真に写っているミュシャのポスターそのものが展示されているのだ(無論、ポスターは複製物であるから、写真に写っているポスターと展示されているそれはまったくの同一物ではないが、複製物である以上そのことは問題ではない)。明治期へのタイムスリップのような演出が容易にできるのは、やはり土居氏の充実したコレクションあってのことである。良き美術館とは良き所蔵品によってつくられるのだ。
 第3章は、藤島武二や杉浦非水らがミュシャの影響のもとに生み出した装丁デザインを中心に、ミュシャの受容の高まりを伝える。興味深かったのは、『明星』の挿絵等を手がけた一条成美がふたつの対極的な試みを披露していることだ。ひとつはミュシャの作品の意図的な模倣であり、もうひとつは、ミュシャと月岡芳年のような浮世絵とを融合させるかのような試みである。異なるふたつの方向の試みには、当時の日本人画家たちの心の淵にあった西洋画への憧れと、ジャポニスムの流行に刺激された浮世絵の再発見というふたつの極の対峙を見る思いがする。そして、そのことは不思議と、現代の日本の若者たちがやはりミュシャと若冲や国吉の両方の極に同時に魅かれていることにも呼応するのだ。[橋本啓子]

2012/12/27(木)(SYNK)

第7回展覧会企画公募

会期:2012/12/01~2013/01/14

トーキョーワンダーサイト本郷[東京都]

作品を審査するのではなく、展覧会のプランを募集し、入選案を実現させるというユニークな公募展。1階のミラク・ジャマール&ニーン・山本・マッソン企画の「upDate 2011111111111s」は、東日本大震災やアラブの春など大きな社会的変化が生じた「2011年」をテーマにしたもの。展示は福島原発事故についてのアンケートや、暗示的な動きをする手や指の映像などさまざまあるが、テーマに比して作品そのものがつまらない。というより個々の展示物は作品未満であり、テーマに追いついていない気がする。2階のエレナ・アコスタ企画の「ジャカからコゥエへ──刑務所からのフォトグラフィー」は、ベネズエラの写真家が同国の刑務所で実践してきた教育プログラムの成果を紹介するもの。タイトルの「ジャカからコゥエへ」は「ストリートから懲罰房へ」という意味で、これも同様にテーマは興味深いけれど、展示物(写真やデータ)を見ても退屈なだけ。また2階の小部屋では、奨励賞として高橋夏菜企画の「TOC」が開かれているが、一見どこがおもしろいのかわからないし、そもそも理解したいとも思わない展示だった。この三つに共通しているのは、実際の作品を見ずに企画段階で選出したため、いわば頭でっかちのプランが勝ち抜くという弊害が表われたのではないかということ。いくらコンセプトが優れていても展覧会は論文でもアジテーションでもないんだから、きっちり作品で(または作品同士の相乗効果で)語らせてほしかった。などと残念に思いながら3階に上がったら、最後で一気に逆転ホームラン! これはおもしろかった。展覧会企画は吉澤博之の「But Fresh」で、泉太郎、開発好明、眞島竜男ら6人のアーティストのデビュー作とその2012年版リメイクを並べて公開するもの。なぜおもしろいかというと、まずアーティストの選択に成功していること。いずれもパフォーマンス、インスタレーション、映像などの手法を用い、しかもサービス精神旺盛なアーティストが多いので、作品の一つひとつを楽しむことができる。展示全体としても、会場が狭いと感じるくらい作品を詰め込んでいるので目いっぱい見た気分に浸れ、お得感がある。これは気分的な問題だが、展覧会において重要なことだ。もちろんデビュー作と最新のリメイクを見比べられるというのもポイントが高い。これがあったから満足して帰れた。

2012/12/28(金)(村田真)

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バナナ学園純情乙女組『バナナ学園大大大大大卒業式~サヨナラ♥バナナ~』

会期:2012/12/28~2012/12/31

王子小劇場[東京都]

昨年5~6月の公演に際して、観客からのクレームが発生し、活動が難しくなってしまったバナナ学園純情乙女組(くわしくは水牛健太郎「いわゆるバナナ事件について」などを参照いただきたい)。これでおしまいかと思っていたのだが、最後に解散公演を行なうことになった。本作を見て(体験してといったほうが正確か)、あらためて思うのは、彼らのパフォーマンスというのは人と人との身体的接触に生じるなにかに賭けるところにあるということ。役者が小道具を使う前に観客にいったん預けたり、水や豆腐を舞台や客席にところ構わず浴びせかけたり、客席の間を水着姿の役者たちがうろうろしたりというのは、観客との直接的接触のマジックに賭ける彼らの方法のひとつである。それは身体の接触によってかりそめの一体感を構築する点で祭りに近いのかもしれない。ただし残念なことに(初日の公演を見たせいかもしれないが)、これまでと比べると、その大事な接触が弱いとどうしても思ってしまう。どんなものであれ接触とはハラスメントであり、傷つくことだ。傷から始まることが彼らのパフォーマンスの核であるとすれば、傷つけないでそれは始まらない。この傷へのアプローチは、今後どう展開するのだろうか。それと、アニソンだとかコスプレだとか若者文化の意匠を薄っぺらなまま大量に舞台に持ちこんで猛烈にかき混ぜる様ももうひとつの彼らの魅力であるが、そこでキラキラ輝く若者の身体の切ないほどに無意味な存在感は、ただたんに彼らが実際に若いから生まれたものではないということを証明して欲しい。そのためにも、解散後の彼らの活躍に注目し続けたい。

2012/12/28(金)(木村覚)

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