artscapeレビュー

2013年01月15日号のレビュー/プレビュー

公共建築から考えるソーシャルデザイン・鶴ヶ島プロジェクト2012

会期:2012/12/03~2012/12/08

渋谷ヒカリエ 8階 クリエイティブスペース 8/COURT[東京都]

渋谷ヒカリエの藤村龍至による「公共建築から考えるソーシャルデザイン・鶴ヶ島プロジェクト2012」展を見る。これまでも彼はワークショップを通じて、先鋭的な集団制作の形式を追求し、今回はついに自治体や住民など、実際のステークホルダーを巻き込む実践的な場を創出したとものと言えるだろう。東洋大の多くの学生を複数の班に分けながら、合議にもとづく、失敗しない、すなわち一定水準の建築のつくり方の形式を提示している。

2012/12/05(水)(五十嵐太郎)

名古屋市科学館

[愛知県]

名古屋市科学館を訪問した。展示は建築や都市計画に関するパートも含むが、竜巻ラボなど、実際に室内で自然現象を起すところは、改めて科学系アートと紙一重だと思う。グリッド状の都市計画のおかげで、遠くから巨大な球体が浮いているのがよく見える、話題のプラネタリウムは、休日だと朝から長い行列が生まれ、すぐに一日分のチケットがはけてしまうが、平日だとあっさりとに入ることができた。プログラムは興味深いものだったが、映像の冒頭で名古屋の街が完全に西欧風に表現されていたのには違和感をおぼえた。

写真:竜巻ラボ

2012/12/05(水)(五十嵐太郎)

開館30年記念特別展「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」

会期:2012/09/29~2013/01/06

神戸市立博物館[兵庫県]

マウリッツハイス美術館のコレクションから約50点の作品が紹介された展覧会。多くの人がそうだっただろうが、私の両親もまた本展の目玉、フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》をぜひ見たいと関西にやって来たので同行した。先に東京で開催された同展の混雑ぶりを聞き、外での入館待ちも覚悟していたのだが、この日は並ぶこともなく入館でき、館内も混んではいたが他の鑑賞者にぶつかりそうというほど窮屈ではなかった。会場の展示は、「I. 美術館の歴史」「II. 風景画」「III. 歴史画(物語画)」「IV. 肖像画と『トローニー』」「V. 静物画」「VI. 風俗画」という6章構成。目当ての《真珠の耳飾りの少女》の空間には、作品に近づいて見るための誘導路が設けられていて、人々の長い列ができていた。作品の前では立ち止まらないようにと係員に言われるので、ここでじっくりと見ることはできないのだが、ただ、列から離れた後方のスペースでならば自由にゆっくり鑑賞できるようになっていたのが嬉しい。2000年に大阪市立美術館で開催された「フェルメールとその時代」展のときは、作品の前を通り過ぎたら、並んだ人々の流れに合わせて自動的に次の展示に移動せねばならない感じだったので今回は満足。今展では、フェルメールは初期の作とされる《ディアナとニンフたち》とあわせて2点、他に6点のレンブラント、ルーベンス、ヤン・ブリューゲル(父)の作品なども。人気集中のフェルメールだけでなく、レンブラントの肖像画をはじめとする他の出品作品も壮観の内容だった。

2012/12/06(木)(酒井千穂)

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大崎のぶゆき展 リバーシブルストーリーズ

会期:2012/12/03~2012/12/22

ギャラリーほそかわ[大阪府]

時間とともにイメージが変容する映像を中心としたインスタレーションで知られる大崎が、新作を発表。作品はどこかの山中と湖畔を訪れた際の記憶をもとにしており、映像のほか、愛用のベスパ(スクーター)、赤い上着、船のオールなどで構成されていた。近年の大崎作品よりもプライベートに踏み込んだ印象が強いが、彼の旧作を知る人ならどこか懐かしさを覚えるかもしれない。現在のスタイルに過去作品の要素を盛り込んだ新作は、彼の今後の方向性を示唆しているのだろうか。次の個展が今から楽しみだ。

2012/12/06(木)(小吹隆文)

尊厳の芸術展 ─The Art of Gaman─

会期:2012/11/03~2012/12/09

東京藝術大学大学美術館[東京都]

太平洋戦争時、アメリカで暮らしていた日系人は強制収容所に連行され、収容され、終戦後しばらくまで拘束された。強制収容所の多くは砂漠の只中に建てられたバラック小屋だったため、そこでの集団生活はきわめて過酷なものだった。しかし、彼らは厳しい生活環境を改善するために、あるいは美しく彩るために、もしくは現状を記録するために、とどのつまりは自らの尊厳を守り、貫くために、数多くの美術工芸品を制作した。
本展は、そうした「尊厳の芸術」100点あまりを見せた画期的な展覧会。仏壇や茶碗、算盤といった生活必需品から、指輪、玩具、花札といった嗜好品まで、じつにさまざま。限られた材料を最大限に駆使してかたちを整えた職人の技芸が、何よりすばらしい。作者不詳のものも少なくないが、だからこそ有名性という色眼鏡を通すことなく、ものづくりの原点を目の当たりにすることができたともいえる。生活というより、むしろ生きることそのものと密着した芸術のありようを、これほど実直に開陳した展覧会は、かつてなかったのではないか。
本展にも出品しているジミー・ツトム・ミリキタニは、アーティストとは何でも学ぶことができる存在だと言った(”Artist can learn everything”、映画『ミリキタニの猫』)。この言葉が意味しているのは、「何でもできる」という万能感ではなく、「何であれ学ぶことができる」という殊勝な柔軟性である。事実、強制収容所は言うに及ばず、そこから解放された後も、一切の生活の基盤を奪われていた日系人の多くは、生きていくために目前の職を一から学ぶ必要があった。生きるには、なにがなんでも学ばざるをえなかったのである。
翻って今日のアートを見なおしてみると、生きることが保証され、かつてとは比べものにならないほど学ぶ機会も豊かになったにもかかわらず、そこでつくられる「作品」の、なんと脆弱なことだろう。おそらく、その最たる要因は、著しく低下した技術力というより、むしろ「何でも学ぶことができる」という柔軟な発想と姿勢の欠如にあるのではないだろうか。いま必要なのは、アートを学ぶことではなく、アートにかぎらず貪欲に学ぶことからアートを立ち上げることである。アートという固定観念を鵜呑みにして、がんじがらめに呪縛されている学生にこそ、見てほしい展覧会である。今後、福島や仙台、沖縄、広島に順次巡回する予定。

2012/12/06(木)(福住廉)

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