artscapeレビュー
2014年01月15日号のレビュー/プレビュー
Q『いのちのちQ II』
会期:2013/11/29~2013/12/01
アサヒ・アートスクエア[東京都]
今年2月に横浜で上演された『いのちのちQ』を基にリアレンジした本作。キャストが何人か欠けたり増えたりがあったぶん、脚本もそれなりの変化はあったが、生命をめぐる問いかけは一貫していて、Qという劇団の、というか主宰の市原佐都子の強い意志が感じられた。ペットブリーダーの家に暮らす、犬の純血種たち。語尾が「~なんだわ、わ、わ、わーん」と裏声で上がり調子の主人公格の女の子(もちろん犬)は、祖父にして父にして夫でもある犬と一緒に暮らす。この設定が明らかになった瞬間、おぞましさが胸中を駆けめぐる。ペットの気味悪さは、市原が女性であるからこそ引きだせるものなのか? ともかくも、生殖し妊娠し出産する性を生きる者の、絶望と可能性がともに描かれることこそ、現在のQの際立った、他に得難い魅力だ。そう、絶望のみならず可能性が描かれるのだけれど、例えば、この主人公格の女の子(犬)は、密やかに、水族館に暮らすというオタリアとの交尾を夢見ている。彼女はテレビ越しにオタリアを知っているだけで、1人で水族館に行けるわけもないし、ましてや交尾を果たせるわけもない。仮に首尾よく交尾まで行けたとしても、それが彼女に与えるのは死だろう。彼女は結局、自分の愚かさを笑い、自分の境遇を受け入れてしまう。この世界に冒険の余地はない。いやでも、本当にそうだろうか。かつて飼っていた犬のことを忘れられずにいる人間の女性が登場するのだが、彼女は自分の混乱した性欲を吐露する。ぼくたちは、それでも欲情するのだ。欲情のなかに秘められている雑種化への意欲は、絶望ベースの世界における微かな希望だ。最近の女性劇作家たちの、世界へ向けた冷徹なまなざしに、ぼくは未来を見たくなる。かつて女性たちは、演劇やダンスの世界で、男性たち中心の空間を彩る「華」でなければならなかった。ようやく、「華」ではない女性の可能性が開かれようとしている。市原が描き出す醜悪なものの内にこそ、前人未到の未来が隠れている、そんな気がするのだ。
2013/11/30(土)(木村覚)
マームとジプシー『モモノパノラマ』
会期:2013/11/21~2013/12/01
神奈川芸術劇場[神奈川県]
今月のレビューで取り上げたQ『いのちのちQ II』を見た直後、横浜に移動して観劇したのが本作。同日に見たのはたまたまなのだが、両者には強い相関性があって、ひとつはどちらにおいても主役級の活躍をしている俳優・吉田聡子のこと。Qの2月公演『いのちのちQ』では重要な役を演じていた吉田は、上演日程が重なっている今回、Qではなくマームとジプシーの作品に登場していた。小さくて、被虐的で、凛としてもいる、今日の演劇を代表する顔のひとつだとぼくは思っているけれど、そのことは同時に、二つの劇団の今日性を映し出してもいる気がする。もうひとつは、どの作品も「ペット」をテーマにしていること。しかし異なるのは、Qがペットたちを主人公にしていたのに対して、マームとジプシーで舞台に現われるのは飼い主の人間たちであることだ。この違いは両者の作品性に決定的な違いを生んでいた(とはいえ、こんな風に両者を比較するなんて誰も思いつかないだろうし、ぼくの場合、たまたま同じ日に見たことで、両者の相関性に言及せざるを得なくなったというのが正直なところだ)。作・演出の藤田貴大は、今作に限らず、「ロス」に直面したときの「やりきれなさ」「悲しみ」へと観客を引きずり込もうとする作家だが、今作はそれが徹底していた。「モモ」と名づけた生後6カ月のネコがいなくなった。どこでどうしているのか。迷いネコを案じるのはこれまた社会において弱々しい存在の女の子たち(小学生? 中学生?)。男性俳優たちは木製のフレームを大小の形に組み合わせて、そうしてできた構造体をつくっては壊し、女の子たちは不安やいらだちや悲しみを抱きつつ、家や扉に見える構造体のなかで周りで躍動した。そう、その様はダンスと呼びたくなるほど躍動的だ。前半はそれでもゆるゆるとした体の運びも目立ったが、後半になると様子は一変、大縄跳びを行なったり、男性陣は1列になって前転を繰り返すなど、物語とは直接関係ない、けれども俳優たちの身体性に直接の変化を与える激しい運動が舞台を覆った。それにともない、物語の焦点が「死」に集中しはじめた。「モモ」の陰で川に流されていた5匹の兄弟たち、また友人の自殺、恋人の死と、立て続けに描かれる「ロス」の場面。正直、観客が登場人物に感情を移す十分な準備なしに、「悲しい」瞬間が訪れてしまうので、音楽があおり、役者の丁寧な演技がさらにいっそう「悲しみ」をあおるのだけれど、それが狙うほどには感情がかき立てられない。それともうひとつは、ペット(モモ)への思いは、飼い主のある意味一方的なものであって、Qが描くようなペット側の思いにひとが心を傾けた途端に相対化されてしまうところがある。その相対化を避けることでしか、この「悲しみ」は絶対化されないのかもしれず、ペットという他者の実存を見ないことによってしか、藤田の狙う感動は観客に訪れないのかも知れない。だからダメなのだと批判するのは簡単なので、この絶対的な「悲しみ」を描く必然的条件を考えてみるべきかも知れないと思う。前作の『cocoon』で描いた第二次世界大戦も、今作のペットという主題も、ぼくにとっては相対化できる悲しみだった。ぼくらにとって絶対的なのは、身体とともに生き死ぬことだ。この生と死の場である身体が、今作では物語とは切り離されて躍動していたが、物語と身体とが離れがたく絡まることがあれば、そこで表象される「悲しみ」は絶対的な質を帯びるのかも知れない。
2013/11/30(土)(木村覚)
高田冬彦「MY FANTASIA」
会期:2013/11/30~2013/12/28
児玉画廊[京都府]
高田冬彦は首都圏で活躍する作家だが、関西では本展が初お目見えだった。そして特大のインパクトを関西の美術ファンに残した。彼の作品は、彼自身が何者かに変装してパフォーマンスを行ない、その模様を映像や写真で記録したものだ。本展では、臀部に食虫植物を生やしてベートーヴェンの田園交響曲を指揮しながらパカパカと股を開く《VENUS ANALTRIP》や、女学生姿&恍惚の表情でワルツを舞いながら盛大なスカートめくりを繰り広げる《MANY CLASSIC MOMENTS》、日本列島の形をした男根を生やしたヤマトタケルが室内で暴れまわる《JAPAN ERECTION》、そして、歴史的に著名な女性たちの首をトーテムポール状に積み上げる様子を記録した《WE ARE THE WOMEN》(新作)が出品された。これらの作品は、表面的にはナルシシストの変態による悪ふざけにしか見えないであろう。しかし実際のところは、人間の深奥に潜む業を引きずり出す行為であり、道徳や倫理、善悪では判断しえない境地を垣間見せることである。それはまるで、真にクリエイティブなものを生み出すためには、常に自らをギリギリの地点にさらさねばならないと訴えかけているかのようであった。
2013/11/30(土)(小吹隆文)
佐竹龍蔵 展「紙と絵具と絵画」
会期:2013/11/22~2013/12/04
gallery near[京都府]
佐竹龍蔵が描くのは、真っ直ぐにこちらを見つめる無垢な少年少女たちだ。その表情は複雑で、微笑んでいるのか、不安気なのか、何かを訴えたいのか、解釈は見る人ごとに異なるだろう。逆に言うと、複数の解釈を許す許容量の広さこそが作品の魅力である。また、彼の画法は点描の一種であり、平筆で薄い単色を置く行為を延々と繰り返して描かれる。そこには線も面もなく、あるのは色彩(=光)の集積のみである。本展では、作品展示だけでなく、佐竹自身が会場に詰めて公開制作も行なわれた。水のように薄い絵具が紙の上に置かれ、徐々に染み込んでいく。その様子は、まるで光が水と絵具に化身して紙に同化するかのようであった。
2013/11/30(土)(小吹隆文)
植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ ─写真であそぶ─
会期:2013/11/23~2014/01/26
東京都写真美術館 3階展示室[東京都]
東京都写真美術館の「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ」展は、日本とフランス、ともに20世紀を撮影した写真家である。が、前者は計算された構成的な写真によってシュールな作品をつくり、後者はまさに動きの瞬間を撮るという意味で、二人の手法は対照的だ。ちなみに、ジャックの撮影した年齢をみると、10歳頃からの写真が展示されており、20世紀初頭という時期を考えると、これは相当に裕福な家でないと不可能だと思う。
2013/12/01(日)(五十嵐太郎)