artscapeレビュー
2014年01月15日号のレビュー/プレビュー
フェスティバル/トーキョー13 F/T13イェリネク連続上演 光のない。(プロローグ?)
会期:2013/11/30~2013/12/08
東京芸術劇場シアターウエスト[東京都]
宮沢章夫演出の「光のない。(プロローグ?)」を観劇した。女優たちが次々と言葉を発していくが、F/T13から与えられた難題=イェリネクの難しいテキストをよくもまあ演劇化したものだと感心する。同じ脚本をもとに、小沢剛が展覧会の形式によって一切音としての言葉を排除したのに対し、宮沢は逆に徹底的に声による言葉にこだわる。彼によれば、語りの私は「死者」とみなしたという。
2013/12/01(日)(五十嵐太郎)
茂木綾子『travelling tree』
発行所:赤々舎
発行日:2013年10月1日
茂木綾子は東京藝術大学美術学部デザイン科を中退後、1997年に渡独し、映画作家、アーティストのヴェルナー・ペンツェルというパートナーと、二人の子どもを得た。スイスのラ・コルビエールでアーティスト・イン・レジデンスなどの活動をした後、2009年に帰国し、淡路島の廃校になった小学校に住みついて「ノマド村」の活動を展開している。本作はその茂木がヨーロッパ滞在中に撮影した写真をまとめた写真集である。
写っているのは、夫との日々の暮らしの断片、二人の子どもの成長の記録、旅と移動の合間に出会った風景など、文字通りの「個人的な写真」である。にもかかわらず、写真集のページを繰っていると、そこにはまぎれもなく優れた写真家の眼差しが介在していると思えてくる。茂木は「あとがき」にあたる文章で、「なぜ私はこのような写真を撮り続けてきたのか」と自問自答し、その答えとしてそれが「不可解さ」に促されて成立していたのではないかと思い至る。「不可解さ」というのは「自分と自分が含まれるこの世界を満たす有形無形の数限りない出来事のなかで、ふと気になる象徴的で謎めいた物事」のことだと言う。
確かに彼女の写真には、そんな「象徴的で謎めいた出来事」が写り込んでいるものが多い。写真集の表紙にも使われている、窓際の壁にピン止めされた「燃える靴下」の写真もその1枚である。だがそれらのなかには、わかりやすいドラマチックな出来事ではなく、ごく些細な身じろぎ。微かな気配としてしか感じられないものもある。むしろそちらの方が圧倒的に多いだろう。茂木が世界に向けて差し出すアンテナの精度は、12年にわたるヨーロッパでの生活のなかで、少しずつ、だが着実に上がっていったのではないだろうか。その成果が、「不可解さ」の写真の連鎖として目に飛び込んでくるのだ。
2013/12/02(月)(飯沢耕太郎)
かぐや姫の物語
会期:2013/11/23
高畑勲『かぐや姫の物語』を見る。CGではなく、手描きを追求したものだが、アメリカ/ディズニーとは違う方法論で、生き生きと絵に命を吹き込むことができることに、アニメの希望を感じた。建築史の教科書に出てくる寝殿造が生きられた空間になっていた。誰もが知っている昔話を現代的な文脈で甦らせる手腕も恐れ入ったが、天真爛漫だが特別な女性というキャラ設定はジブリのテンプレートかもしれない。
2013/12/03(火)(五十嵐太郎)
生西康典『おかえりなさい、うた』
会期:2013/11/30~2013/12/04
UPLINK[東京都]
「音の映画」という言葉が作品タイトルの脇に添えられている。それで勘ぐって「ああ、画面に何も映らないで音だけ流れるってことね」と早合点してしまったら、大変なことになった。ぼくだったら代わりにこの映画を「映画館の映画」と形容するだろう。あれでも、それじゃあ、あたり前か。ならば「映画館的闇の映画」ではどうか。「音の映画」というけど、たんに音だけならばCDを聴けばいいし、上演するならば、明るいところで(日中の野外でも)スピーカーがあればそれでいい。でも、この作品はそんな単純な「音」の映画ではない。上演は必ず映画館がなければならない。いや、正確には、映画館の「闇」こそが、この映画にとって、必要不可欠のパートナーなのである。声でカウントダウンが始まる。その後、映画館はいつものように闇になる。だが普通ならば、闇になった直後に映写機が稼働し、スクリーンに光が当たり、観客の視覚能力も稼働を始めるものだ。それが、この作品では光が最後まで与えられない。音は聞こえてくる。ときに、演奏だったり、誰かのインタビューだったり、お話だったり、宇宙に関する詩的な言葉だったりが、耳に入ってくる。もちろん、その音たちを構成した生西康典の、音に体するデリケートな探査能力や選択能力にもワクワクさせられるのだけれど、それは夜の闇に浮かんでいる星々のようなもので、この作品を彩っているものには違いないが、しかし、この作品のもっている甚だしさの一部に過ぎない。音たちに囲まれながら、何度も目をぱちくりしてみた。もちろん、なにも見えない。この「見えない」状態が長く続くとどうなるか。ぼくは対象を求めた。ぼくの感覚は対象を求めて反り返る。その結果ぼくは「対象を求める自分」を感じるところへと至った。自分の身体を感じる、その呼吸とか、見えない目の動きとか、音に遭遇され続ける耳の感じとか。それはほぼ同じことなのだが、闇を感じることでもある。闇が膨らんでそれ自体が実体を持つような感じになって、自分を囲む。この感じは、ただ目が見えないという事態が生じるだけで起きることであるならば、自分のすぐ近くにいた隣人のはずだ。しかし、その隣人をぼくはほとんど知らずにいた。そんなことに心底驚く。映画館という人工的に闇を出現させる場の本領が映画(映像=光)がないことで立ち上がってきた。ちょうどこの数日前に、ぼくは水戸芸術館で行なわれた視覚障害者と展覧会を見るイベントに参加したばかりだった(「ダレンアーモンド──追考」関連イベントで、タイトルは「視覚に障害がある人との鑑賞ツアー『セッション!』」)。視覚障害者も、触覚的な要素なしでも展示を楽しむことができる。彼らは、見えるひとと一緒に展示室に入り、見えるひとから作品の説明をしてもらったり、作品に抱いた感想を聞くことで、鑑賞を行なう。見えるひとの多くが孤独な作業だと思っているのとは異なり、彼らにとって鑑賞は社交し、おしゃべりを交わすことなのだ。視覚障害者がこの作品を鑑賞すると、どう感じるのだろうと思った。あるいはぼくらはどんな言葉を交わすのだろうと想像した。この作品の真骨頂が「闇」の体験になるのだとして、闇との付き合いが長い「玄人」な彼らは、この作品にどんな感想を持つのか知りたいと思った。そんな未知の隣人に気づくことが、この作品の唯一無二な力なのだ。生西の映像作品には、ほかにも『演劇』『ダンス』と呼ばれるものがあり、今回ぼくは『ダンス』(「星の行方 Where Did the Stars Go…」「既に光は 暗い土のなかに」の二作の舞台公演を映像化したもの)も見た。とくに「星の行方」の映像と踊る生身とのコラボレーションには、新鮮な感触が強くあって、「映像」と「身体」の関係可能性について深く考えさせられるところがあった。
2013/12/04(水)(木村覚)
堀田真悠『新月』
発行所:東京ビジュアルアーツ/名古屋ビジュアルアーツ/ビジュアルアーツ専門学校・大阪/九州ビジュアルアーツ
発行日:2013年11月20日
2013年度の第11回ビジュアルアーツアワードを「新月」で受賞した堀田真悠は1992年、京都生まれの20歳(受賞当時)。同賞の最年少受賞者ということになる。だが、その作品世界の完成度の高さは恐るべきもので、写真を取りまく現在のハード及びソフトの環境を的確に使いこなせば、高度な表現力を年齢にはまったく関係なく発揮できることがよくわかる。
「新月」というタイトルが示すように、彼女が引き寄せられていくのは「見えない闇」の世界である。そこには普通の視力では「見えない」けれども、確実に何かがうごめいていて、時には魅惑的な、時には禍々しく不吉な世界を垣間見させる。堀田はそれらを的確にカメラで捕獲していくのだが、プリントして作品化する時にさらに操作を加えることが多い。彼女をビジュアルアーツ専門学校・大阪で指導した百々俊二によれば、「マットブラックインクを光沢紙で使用することで暗部のテクスチャーは浮きあがり反転したミスマッチで出来たプリント」なのだと言う。撮影・プリントの機材のデジタル化によって、これまでとは違った多様な表現の可能性が生じてきているわけで、堀田のような世代は、それらをごくナチュラルなプロセスとして身につけることができるのではないだろうか。
もうひとつ興味深いのは、彼女の作品全体に貫かれている、琳派を思わせる華麗で装飾的な画面構成である。この奇妙にクラシックな美学は、やはり彼女が「京都と奈良の県境の田園地帯に育った」という風土性に由来するのだろうか。
2013/12/04(水)(飯沢耕太郎)